子供の頃の思い出

 2008年3月8日、ワイフが入院中なので、朝食を母と一緒に近所の喫茶店のモーニングにした。
 週刊誌を見ていたら、裸の女性の立ち姿を後から撮した写真があった。人妻を初脱ぎさせるのを売りにした画像で、女は少し豊満な体つきをしていて、下腹がほんのり出ていて、腿が太かった。
 色白で、肌がきめ細かそうで、ウエストが綺麗なラインで括れていて、太腿が太腿らしくて、斜め後ろから撮った乳房の形が良く、結構だなと思った。
 その帰り道にとんでもないことを思い出した。
 私がまだ小学校に上がる前、昭和27年頃に、その頃住んでいた家にその写真のような形をした磁器の花瓶があった。女体花器とでも言うのだろうか。
 真っ白の艶やかな花瓶で、上は乳房から始まり、下は太腿の付け根までだった。腕も肩のところで切った形の手がないもので、豊満な女の体の輪切りそのもの、ゆるやかなマンコの膨らみもあって、エロいと言えば極めてエロい。
女の腰
 家に帰ってから、鉛筆で花瓶の絵を描いて母に示すと、母も覚えていた。
 母は「多分進駐軍の兵士から貰ったものだ」と言った。確かにそんな淫らなものは当時の日本では作られなかっただろう。
 私が小学校に上がる2年か3年前にはなくなっていたはずだと言い、どうしてそんなことを覚えているのかと咎めた。
 私は多分もう50年ほどその磁器のことなんて考えたことがないと思う。でも、61歳になって突然艶めかしい形をした真っ白な花瓶のことを思い出した。全く不思議だ。
 花瓶は、乳房をそんなにでっかくしておらず、由美かおるクラスのサイズで形がよかった。割れ目があるべきところはのっぺらして、割れ目も恥毛も表現されていなかった筈だ。下腹と尻の膨らみが何とも言えず、太腿の質感が結構だった。そのすべすべの花瓶をよく手で撫でていた。
 そのようなことを50年以上もしまっておくとは、海馬の不思議なパワーにほとほと感心した。人間の記憶力ってすごい。こんなことを思い出すというのは、死期が近いことの前兆だろうか。
 しかし、5歳の頃に、女体のエロスに感動して花瓶を撫でていたのが、私の“原体験”なのだと思わざるを得ない。

 私は幼少の頃、名古屋の超繁華街、一級商業地に住んでいた。
  0  〜3.5歳 中区葉場町、現在平和一丁目、金山駅の北東すぐ
  3.5〜5.5歳 中区御幸本町、現在錦二丁目、かっての東海銀行本店の敷地内
  5.5〜6.5歳 中区小市場町、現在錦三丁目、テレビ塔のすぐ西隣
 という具合だ。
 私は昭和22年の早生まれで、多分昭和25年までは金山近くに住んでいたのだろう。
 両親は、名宝会館(この映画館の建物はもう消滅している)の向かえの場所・納屋橋の広小路通り沿いで喫茶店をしていた。そこは当時名古屋で最も繁華街だった。
 3歳半までだから、さすがにその頃のことは全く覚えていない。
 この頃喫茶店の男の使用人と女の使用人がくっつき、女が会計をやっていて、店の金を銀行に預けてあるものまで含めてごっそりさらって逃げたという大事件があった。会計を他人に任せたら駄目だということが両親はわかっていなかった。
 その後、両親は現在の三菱東京UFJ銀行名古屋中央支店のところに引っ越し、酒屋を営んだ。
 私は風俗の女と親しくなって話し込むといつも感心することがある。それは女の人が幼稚園や小学校低学年の頃のことをよく憶えている、それも、結構動画的に憶えていることだ。私は殆ど記憶していない。これにはいつも感心する。
 それでも、私が小学校に上がる前に起きたことで、強いインパクトがあったものは、断片的な瞬間映像ではあるけれどもいくつか憶えている。
 一つ目は大きな地震があってすっごく怖かったこと。
  (ネットで調べると、1952年07月18日<私は5歳>の吉野地震と推定できる〜名古屋の震度は4)
 二つ目は、まだおむつがとれない弟が家の急な階段を二階から一階まで転げ落ちたこと。
  (私は階段の下で、弟が回転して落ちるのを見ていたようだ)
 三つ目は酒屋の断片的な日常光景だ。
 5歳の頃は、後年東海銀行本店のあった一角に住んでいた。私はすぐ近くの朝日神社が遊び場で、丸善や明治屋が極く近所だった。
 ここも一級繁華街(栄町)で、名古屋三越の前身がオリエンタル中村、そのオリエンタル中村の前身の中村呉服店が、後に東海銀行本店が建てられる位置に当時あった。
 私の家はその中村呉服店の裏手でほぼ隣接していて、私は中村呉服店の反物売り場の間でかくれんぼをしていた。家(酒屋)には、進駐軍の兵士や娼婦たちが客としてよく来ていた。
 私はその軍人さんたちにかわいがられて、母の話によれば「ヘイ、チンピラベイビー、カモン」と声をかけられていたようだ。
 これも母の話だが、家のすぐ近くに飲食店の『不二家』があり、裏口から厨房を覗いて、「下からアメコンコンの出るオブウをちょうだい」とねだっていた。これはサイダーのことだ。
 進駐軍の兵士にかわいがられたから、チョコレートやバナナを食べることができ、『不二家』の店員にもかわいがられてアイスクリームとサイダーにもいつもありついていた。
 たとえばバナナだと、母の記憶によれば当時は1本150〜200円ぐらいの値段で、超高級品。その頃の幼児の一般的な間食とは全く質の違う、まるでリッチな食生活だった。
 その頃、名古屋の子供でも、バナナ、サイダー、チョコレートなどを口にすることはなかなかなかった。
 で、私は米兵と遊んでいた光景をぼんやり覚えている。
 とにかく、私のまわりには進駐軍の兵士に春を売る女が沢山いた。私は幼児の時にパンパンとかパンスケという言葉を耳にしていた筈だ。米兵が日本の女と手を組んでいる光景を子供心にいやな光景として見ていたようだが、母は彼女たちが米兵からもらったラブレターを訳してやることがあったらしい。
 そんなことから、私は娼婦という職業に体質的に嫌悪感がないことになったのかもしれない。
 御幸本町の家と土地は父の長兄の所有だったが、それを中村呉服店に売却することになって、叔父が世話をしたのが小市場町の家だった。父は酒屋をやめて長兄の営む会社で働くことになった。
 従って、昭和27年頃は小市場町に住んでいた。テレビ塔の西南西30mぐらいのところ(久屋大通沿い)に建っていた。
 要するに私は、幼年時代には名古屋のメインストリートの広小路通りに近いところに住んでいて、いつも市電と人通りを眺め、昭和20年代の幼稚園児としては珍しいほどの生活、つまり、時々昼飯に天津麺や五目焼きそばを今の松坂屋や丸栄デパートのようなところで食べるという暮らしだった。
 これはなかなかリッチな生活だ。今は、天津麺や五目焼きそばなんて、並以下の外食料理だけれど、当時は外食するのが富裕層に限られていたから、立派に贅沢。しかも、私はいつも革靴を履いて、靴下を穿いていた。当時、靴下を穿いていた幼児なんて……。
 この頃例えば、幼稚園のこととか遊び相手(男)のことはなにも覚えていない。
 覚えているのは変なことばかりだ。
 一つ目は、冒頭の女裸像の花瓶だ。
 二つ目は、これも陶磁器の飾り物だ。女神だか貴婦人だかが数人喋りあっている像で、カラフル、綺麗、重い、という代物だった。
 裏に英語でメイド・イン・オキュパイド・ジャパンと書いてあった。私は米兵と遊んでいたから、多分メイド・イン・ジャパンの意味はわかっていたのだろう。それで、オキュパイドという余分なものがあるのが不思議だった。
 その綺麗な置物と裏の英文字がしっかり記憶に残った。それにしても、私は幼児の頃から目鼻立ちの整った女の顔が好きだったようだ。
 中学生になって、occupyという単語を知った時、米兵とパンパンと当時栄町の道端にたくさんいた物乞いの傷痍軍人と陶磁器の飾り物の英文字を突然思い出した。
 あああれなのか、と思うや、オキュパイドの日本の悲しさにしばらく涙が出た。慟哭したと言ってもよいぐらいだ。終戦と新聞は書いているけれど、敗戦なんだぞと怒鳴りたかった。
 三つ目は、隣家の幼女と乳母車の中に隠れて陰部のさわり合いっこをしていて、母に怒られたことだ。
 当時私は松兄幼稚園(今はない)に通っていた。当時名古屋で子供を幼稚園に入れるという家庭はかなり少なかった。
 家は貧乏でも、母の実家が富裕で、実家からいろいろ援助を受けていた。実家が女中を雇って、母のところに派遣していた。私は女中さんに連れられて長者町の幼稚園に通っていた。
 後年東海中学に入ると見覚えのある顔が二人いた。どこかのお寺の息子と製パン会社(長栄軒)の社長の息子だ。
 私は幼稚園の仲間を中学生になっても判別できることに驚いた。
 お寺の息子というのが松平実胤氏で、中日新聞などで最近よく名前を見かける。
 私が小学校に上がる頃、財産なしの父は実家の援助(要するに財産わけ)を受けて、昭和区の真ん中辺りで土地を購入し、家まで建ててもらった。一等商業地の広小路通りからは遠く離れ、にんじんやキャベツの畑、牧場などがあった淋しいところだ。(現在ではそれなりに結構な住宅地域となった)
 要するに、子供の教育上大変よろしくないところから脱出できた。
 私の幼児期の原体験は、都会の喧噪と淫猥だった。

 広路小学校に入学した。
 ところが、私はその小学校低学年の頃のことを、家庭内のシーン以外は全く覚えていないのだ。友達と遊ぶことはあっても、それに関する記憶がない。
 家庭外のことで残っている記憶は、小学3年の8月1日の事件(後述)とお医者さんごっこと学校給食がつらかったことぐらいしかない。
 学校が楽しくなかったから、すべての記憶を消滅させているとしか思えない。
 今、下北半島に住んでいる人と東京に住んでいる人とを比べると、お洒落のセンスの違いは多少あるだろうけれど、似たような服を着ていて、互いに会話しても、似たような日本語になるだろう。
 しかし、例えば、昭和29年の津島や一宮や岡崎の人と名古屋のど真ん中の人と比べたら、服装も言葉もかなり違う。前者は完璧など田舎になる。テレビもケータイも自動車も道路もない世界を考えたら、両者が文化的風俗的に違ってくることは明らかだ。
 それと同じで、名古屋中区に住んでいた子供と、昭和区の、畑の多い地区に住んでいる子供とは、服装が違い、日本語が違っていた。
 私は松兄幼稚園卒。広路小学校には幼稚園卒が当然あんまりいなかった。
 私が幼稚園児の時、周りは富裕な家庭のお坊ちゃん、お嬢ちゃんばかりだった。私は女中さんに手を引かれて幼稚園に通った子供。
「ぼく」とは言っても「おれ」と言うのは、聞いたこともない。いかにも洒落た児童服を着て、足は、靴下+革靴。町中育ちで言葉が全く都会風、服装も雲泥の差で洒落ていた。
 そんな子供が広路小学校には殆どいなかった。
 もう私は宇宙人みたいな存在だ。私から見ても、周りの人間にはすべて違和感を感じていた。そして、学校給食が私には拷問に近かった。最高の地獄だった。
 ちゃんと食べないとヒステリックに怒る先生がいて、私は(相対的にかなり)上等な服のポケットに、食べられない肉や野菜を入れてしまい、母に怒られる日々が続いた。
 家に帰って本を読んでいる方が楽しかったはずだ。
 特に体操の時間になると、鉄棒でも、ボール受けでも、跳び箱でも、絶対にやろうとしなかった。
 先生が私にやらせようとしても、私は「先生、そんなことを言って、ぼくの足が折れたらどうしてくれるんですか」と頑張っていたらしい。私は何も覚えていないから、母の笑い話だ。
 指導の都合か演技の都合かで、先生が私の靴下を脱がせようとしても、絶対に脱がなかった。先生は、私の足に醜い痣があるのだろうか、指が癒着しているのだろうか、などと心配するし、とにかく先生を困らせたようだ。これも母の話。私は覚えていない。
 ただ、他の子と同じレベルになりたいと思って、私が親にしつこくズック靴をねだったことを覚えている。
 折角の革靴を良家の子供が履かないズック靴に変えたくなくて、母がかなり抵抗し、結局ようやく革靴とおさらばできた時の強烈な嬉しさが記憶にある。
 靴下をなしにして、皆と同じズック靴に裸足を突っ込んだのが、皆に仲間入りしたようで大変嬉しい思い出になった。
 ただ、小学3年の8月1日に眼鏡をかけたのが、また、皆と別の人間になった感じで、寂しかった。当時広路小学校で6年生ぐらいなら眼鏡をかけている子供がいたけれど、3年や4年ではいなかった。
 小学低学年の時の一番の愉しい思い出は、昭和29年、中日ドラゴンズの日本一をラジオにかじりついて聞いていたことで、一番つらい思い出は眼鏡をかけなければならなかったことだ。何せ、8月1日という日付まで覚えているくらいだから。

 この頃の思い出を良性記の雑感にいくつか書いている。次だ。
 その1
 斎藤茂太さんの書かれたいくつになっても輝いている人の共通点にはいいことが書いてあります。
「何歳になっても恋愛ベタは健康ベタ」「がんを招いてしまう性格がある」「まじめな人はなぜ体調を崩しやすいのか」
 こう出てくれば、この本を読みたくなるでしょう?
 アトピーも心に原因があるのではないかと書いてあって、いろいろ実例が記されています。これで私は思い当たることがあります。
 私の母は濃尾平野のど真ん中、裕福な商家に生まれ育ち(舟木一夫氏の実家に近い)、知多半島に住まいする半農半漁の家に嫁ぎました。戦死した兄の戦友ということだけで、母の意志に関係なく縁談がまとまりました。
 その戦友だっだ私の父は5人兄弟の末っ子。家庭の雰囲気が全く違うことに母は面くらい、用語・方言の違いにとまどい、姑小姑とのごく当たり前の確執を経験して、しかも、肝心の父とは恋愛感情がまるでなかっただけに、大変なストレスに陥ったことと思います。
 その結果、母は自分が心身症とか円形脱毛症とか痒がり屋さんにならずに、ストレス波を私に放散して苦しめました。
 私はオギャーと生まれた瞬間から、ものすごいアトピー体質に苦しむことになりました(身長の伸びも停滞しました)。殆ど死にかけの状態、成人するまで生きないだろうと医者に言われたそうです。
 まあ、これは、私が母の乳を飲まなくなり、母が生きることが愉しくなって、ストレス波を我が子に向けて放散することがなくなれば、自然と解消されるはずなんですが、私は更に心の病を持ち続けることになりました。
 中学生になり、厭世観という言葉を学んだとき、私は「これが自分の人生だ」と思いましたよ。
 どうしてそうなったのか。人間は食と性が大切です。小学生には性は関係ないですから、食に問題があったのです。
 母は何と昭和30年代の前半に、専業主婦の退屈さから料理学校に通いました。家の近所にそんな主婦はいません。我が家の台所には近所の家にはない香辛料がたくさんあり、たとえば、マヨネーズは輸入品を使っていました。
 要するに、当時(昭和33年以前)の名古屋市昭和区の、今池〜御器所〜桜山のラインより5キロ以上東の住民で、料理学校に通うとか、栄町の明治屋に食材を求めるとかの主婦なんてかなり少なかったのです。
 勿論、子供の本を栄町の丸善に買いに行く主婦もかなり少なかった。自家用車も地下鉄もない頃に、中区の繁華街にまで出かける主婦が少なかったのです。
 で、私の家は食材が贅沢、かつ、母の手料理が上手すぎたので、私は学校給食が我慢できませんでした。全部が犬のえさ並です。給食の時間が恐怖でした。出てくるものはほとんど食べられず、食べられないものをこっそりポケットに入れては、担任の先生や母にしかられていました。
 私から見れば、学校給食は刑務所の食事以下です。アウシュビッツやシベリヤの収容所もどきです。食材が粗末で、においが悪く、味が単調で、堅い部分が多く、ひたすら不味いです。
 喉を通るのはごはんとジャガイモと魚(ただし、鱈・ホッケのたぐいはダメ)ぐらいで、獣の肉と鯨の肉、鶏肉、ホウレン草、かぶら、大根、にんじん、ごぼう、とまと、オートミール、とにかく全部食べられません。
 何も食べない私にヒステリーを起こして、強制的に食べさせようとした担任がいたから、私はもう学校が地獄でした。
 それだけでなく、仲間の連中が、知性も教養もない、繊細な心も思いやりの心もない、何でも口に入る、漫画しか読まない、とっても動物的な、とにかくダサイ人間に見えていました。(要するに、今で言うと、2ちゃんねらーに囲まれているような気分です)
 というわけで、全身が痒いという症状がずーっと続きました。
 中学に進み、学校給食から解放されると、私は天にも昇る歓びに包まれました。母が作る弁当、その余裕がないときは、売店で買うパン、これがとってもありがたかったです。
 で、心身症のアレルギーから解放されればいいのに、奥歯に詰めた詰め物が水銀アマルガムの混入物であったため、これが原因で更にアレルギー症状が続きました。
 詰め物が取れたときから、人生の大半を悩ませたアレルギー症状とおさらばをしましたが、良性記を出すと、別のアレルゲンが発生しました。闇の掲示板です。だからキンタマがかゆいです。
 かゆくなったときに、親しい女の子にここを舐めてもらうと、とっても気持ちいいです。

 その2
 私の父は年収がかなり低かったのですが、インフラ整備の鬼でした。
 電話を引いたのもテレビを入れたのもカラーテレビを入れたのも水洗便所を設置したのも、私の家を中心として半径500m以内にある一般民家の中では、我が家が最初で、年収に完璧に分不相応なインフラ整備でした。
 電話とテレビの設置は私が小学生の頃のこと(昭和三〇年代前半)で、一応名古屋という都会住まいですから、その頃でも家の近くに無人の土地はあまりありません。そういう住宅街で我が家はインフラ整備については何でもトップを走っていたのです。
 で、電話を引くと近所の人が借りに来て、テレビを入れると近所の大人と子供が8人ばかり見に来て、水洗便所を設置すると近所の人が借りに来て、いやはや大変でした。
 子供心にも、人間ってなんて図々しくてさもしいのだろうと思っていました。
 家の近くに下水道がまだ来ていない頃、我が家は真っ先に下水道を引きました。私の家の近くの家はこの恩恵があって、ローコストで下水を入れることができました。
 多分都市ガスも同じだったと思います。
 我が家には冷蔵庫もありました。新築して中区のほうから引っ越した時、近所には冷蔵庫のある家が、トヨタの重役の家ぐらいしかなかったと思います。
 勿論電気冷蔵庫なんてない時代で、氷屋さんが定期的に氷を配達していました。当然、電気冷蔵庫や電気掃除機や電気洗濯機の導入も近所ではうちが真っ先です。
 蛍光灯、電話、テレビ、電気冷蔵庫、電気釜、電気掃除機、電気洗濯機、水洗便所、子供用の個室、すべて我が家が文明開化の走りでした。
 母の実家からの援助があったからできたようです。
 ほんと、男はお金持ちの娘を嫁にすることが大切です。
 考えてみれば、私が眼鏡をかけたのが小学3年の8月1日で、これも学校で真っ先でしたね。映画の『ゴジラ』や『キングコング』を見たのも、多分私が一番早かったでしょう。

 その3
 いろいろ書いていて、どうにも語彙が乏しいことに我ながら嫌になります。知り合いには難しい言葉が多いと言われるけれど、私はむしろ使用している言葉の数がみすぼらしいと思っています。
 こういう思考するようになったきっかけが実は小学校の5年のときにありました。私はそんな子供のときに重大決意で掟を誓いました。
 何かというと、まだ子供達がそれほどテレビ鑑賞に時間を取られず、娯楽の主力が漫画の本と屋外の遊びだった頃、私は漫画断ちを決めました。漫画を見れば人間が成長しないと考えたからです。
 これは言うに言えないほどつらかったです。今の子供がゲーム機に手を出さないと決めるようなものですからねえ。滅多にいないでしょう。
 しばらくは掟を破りたくてしょうがなかったけれど、一度決めた誓いは懸命に守りました。爾来一冊丸ごと漫画という本は今日の今日までどんなときでも全く手にしたことがありません。
 今仲間と酒を飲むとゴルフの話がかなり話題を占めます。ゴルフをしない私はゴルフの話になると黙っているしかありません。それと同じで、その頃仲間が漫画の話をすると黙らざるを得ません。とっても寂しかったです。
 当時、私は漫画を読みふけってばかりしておれば、きっと人間がダメになると思っていました。で、中学生が読むような本ばかり読んでいました。
 それでもやっぱり金津園狂いをするようなダメ人間になってしまいましたが、漫画断ちをして以来、大人が漫画を読んでいるのを見ると、大変バカにしたくなりました。
 それはそうです。私が読む本はエロい本以外は、いわゆるかなり高等なものばかりだからです。エロい本だって一級でした。古今東西の好色文学は殆ど読み、谷崎潤一郎の鍵や瘋癲老人日記は高校一年で読んでましたから。
 私に言わせれば、女をペニス突き込みのサンドバックにしているだけで、女体の演奏をしない男は、小説を読まずに漫画ばかりを見たがる人と同類です。

 その4
 因数分解や微分の計算で悩まされてきた人が、実社会に入ってこんなものが何の役に立つんだと息まいている文章によくお目にかかります。
 一方、数学を教える立場の人は、数学的思考が大切なんだと反論します。
 私は後者の意見に賛同したいです。
 私の母は、夕食の支度にかかったり、ナイフで鉛筆を削ったりするときでも(まだ鉛筆削りなんてない時代です)、小学二三年の私に向かって、「午前11時40分から午後2時20分までは何時間何分ですか」という問題を出す教育ママだったから、随分悩まされました。せめて、午前11時10分からの問題にしてくれ!と子供心に怒り狂っていました。
 ラジオ新諸国物語の笛吹童子や紅孔雀に全国の少年が聞き入り、中日ドラゴンズが初の日本一になった時分に、私の母の教育ママぶりは断然に異色でありました。
 私が答えられないと、鉛筆を削っていた母はイライラしてナイフを振り回します。そのナイフがちゃちなものでなくて刃渡り10センチぐらいの大きめのナイフだったのですが、勢いよく振っているうちに、刃が柄から外れて1mすっ飛びました。
 鉄製の太い刃が私の頬に突きささり、とがった刃先が奥歯に当たってカチン!と音がしました。頬から鮮血が飛び、母は真っ青になって私を小児科に連れて行きました。
 頬の傷跡は私が40歳になる頃まで残っていました。

 だから、今でも、大正10年3月生まれの人は今何歳と考えることがイヤでたまりません。
 しかし、金津園で2時40分に部屋に案内されて、ダブルの200分で入ったから、上がりは何時何分のはずだという計算は、イヤでもせざるを得ません。
 幼い頃は時間問題とか鶴亀算にたっぷり悩まされたけれど、中学生以降は数学が大好きになりました。私は情緒的なものが好きだけれど、論理的なものも好むようになりました。
 ax2+bx+c=0の解は?と聞かれたら、(1) a=0かつb=0の場合 (2) a=0の場合 (3) a≠0の場合 の三通りの答を出す必要があります。
 こういう思考が大切だと私は思っています。
 だから、私のエッセイはいろんなIFを想定して論理を展開しています。文章はダラダラと長いけれど、必要なところはしっかりと箇条書きにして少しでも飲み込みやすくなるようにしているし、定量的な表現も心がけています。
 まるで実業の世界における、社内資格の昇格試験論文みたいにきちんとしています。真面目に読む人には識字の向上になります。しかも、エロさ満開だから、これは世界に例を見ないサイトと言ってもいいぐらいです。
 考案する文章の構成と論理展開がしっかりしていることが好ましいことだとするなら、どう考えても数学的な素養は必要です。
 10年有期年金の年金月額が月20万円なら、年金支給開始時期の現在価値評価額はいくらぐらいだろうかと考えることが先日ありました。
 年金数理関係の本を買うのももったいないし…、と考えていると、EXCELの関数のことを思いつきました。で、EXCELのヘルプで、年金で検索するとPV関数というのがありました。
 このPV関数を使って、月額が月20万円、金利5.5%、10年、で計算すると、19百万円の答を得ました。
 やはり数学の素養がないと、こういうことには手も足も出ません。
 最近は皆で飲みに行っても割り勘ばかりです。会社の経費で落とせません。
 44004は3で割り切れる。(4+4+4=12が3で割り切れるから)
 45324は4で割り切れる。(下二桁の24が4で割り切れるから
 45184は8で割り切れる。(下三桁の184が8で割り切れるから)
 45324は9で割り切れる。(4+5+3+2+4=18が9で割り切れるから)
という知識も何となく自己満足を生みます。(なお、これは小学6年の時に教わりました)
 で、私が発見したピタゴラスの定理です。
 (男の優しさ)2+(男のテクニック)2=(女の性感発揮乃至は応対の雰囲気の良さ)2
 更に、物質とエネルギーとの関係を示す神秘的な定理 E=MC2(Eはエネルギー、Mは質量で、Cは光速)は次を表します。
 女のエネルギー(情熱)はM(男)の前でのシーシーと等しい、です。
 シーシーは放尿です。



 これまでは大体小学4年までのことだ。
 小学5年6年はどうかというと、これも学校関連では楽しい思い出というのが京都への修学旅行ぐらいしかない。そもそも家庭外のことでそんなに記憶していることがないのだ。
 はっきり記憶していることは、担任の先生の顔つき、マンガ絶ちの決意、しょっちゅう耳鼻科医院に耳の治療で通うつらさ、後は、塾でツルカメ算なんかに苛々していたことぐらいだろうか。
 とにかく私は変なことしか覚えていない。例えば、小学3年の時、隣の女の子が小便を洩らし、それで私のズボンが濡れてしまい、先生にズボンを脱がされたことだ。(椅子が二人掛けだった)
 家庭内のことで記憶に残っている度合いの強いものから順に並べると
(1) 初剥き(痛さ、皮が戻らぬ恐怖、恥垢のくささと形状)
(2) ある日親がセックスをしている気配を感じたこと
(3) 古典文学全集を買ってもらった喜び
(4) 親の夫婦げんか(とっくみあい、もの投げ、皿割り──子供にはショックだ)
(5) 東海中学へ行くために勉強させられたこと
(6) 従兄弟と、夏休みの蝉取り、ザリガニ取り
 と、こんなものだ。

 今自分の人生を振り返ると、つくづく今の子供は気の毒だと思う。
 私がこれまで得てきたような感動が彼らには得られるのだろうかということだ。要するに、次のものを初めて手にした喜びだ。
───蛍光灯、下水道、都市ガス、電気冷蔵庫、電気掃除機、電話、テレビ、電気炊飯器、エアコン、電卓、
パソコン、デジカメ、ケータイ、ステレオ音響機器、プリンター、コピー機、新幹線、エスカレーター
 今後、SF映画で見るような、何か便利な道具・生活用機材ができたとしたところで、私がこれらのものを初めて手にした時の感動よりもはるかに小規模の感動しか得られないのではなかろうか。
 下水道が来て、トイレがくさいのからくさくないのに変わって、すっごく嬉しい──こんなのは、ケニアやチベットの都市部の子供には今でもあるだろうが、日本の都会ではもう経験できない。
 私が小学3年の時、父に東京への招待旅行があって、私は父に連れられて、隅田川の花火大会など見たけれども、一番記憶に残っているのは、デパートで下りのエスカレーターに乗ったことだ。そんなことを今でも思い出すのだから、その時如何に驚いたかが如実に表れている。
 都市ガスの前にプロパンガスが入ったけれど、あの時は驚いた。薪を割らなくても良くなったのだ。

付記
 母が想い出話をよくするから、私は葉場町、(御幸)本町、小市場町の三つの町名をしばしば耳にしていた。いずれも繁華街だから、大人になってからも近くを通ることがしょっちゅうあった。
 女性と街を歩く時、「僕は昔ここに住んでいたよ」と教えると、誰もが驚いた。
 しかし、私は母がよく口にするこの三つの町名を文字で見たことがないし、他の人から聞いたことがないから、一体何やろうと思っていた。
 今回このページを書くに当たって、母に、本町が御幸本町であることと、葉場町、小市場町の漢字を確認し、念のため何区なのか確認しようとぐぐって見た。
 すると、まともにヒットしないから、母の話は本当かと疑いたくなった。
 それで、名古屋市のサイトをいろいろ眺めていたら、とうの昔に町名変更になっていたとわかった。
 どうして由緒ある地名を簡単に変更してしまうのだろう。

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