耳の病気の話

 私の人生に常に密着していた長いつきあいの友達がいます。
 うんざりする友達とつきあいが続くということが、出勤の朝、私の食欲を失わせ、勤務不要の日が来るのを待ち望む気持ちを育てておりました。そのことについて書きたいと思います。
 私は生来アレルギー体質で、子供の頃から喉や鼻が大変弱く、始終炎症を起こして耳鼻咽喉科の世話になっていました。アデノイトの手術は幼稚園児の時に受けたし、幼児から小学生の時までよく遠距離通院して、鼻に管を差し込まれ、耳の奥に通気を受ける日が、毎年何ヶ月間かはあったという記憶です。
 それでも炎症は深く進行して、両耳とも慢性の中耳炎になりました。
 早い時期、小学校の低学年か幼稚園児の時に、左耳の鼓膜は陥没し、振動の力を殆ど失っていました。
 陥没の理由は、炎症→中耳の中に汁が充満→空気が汁に吸収される→中耳の気圧低下→外耳との気圧差から鼓膜が陥没 ということです。
 小学校の低学年のとき、私は学校の成績がそれほど良くなかったのですが、たぶん先生の説明が聞こえていなかったのだと思います。
 小学4年の頃、黒板の字が読めないことを理由にして、最前列の席へ変更を申し出て、先生の説明がきちんと聞き取れるようになりました。それからは成績も上がりました。
 左耳の鼓膜が陥没していた結果、私は音を殆ど右耳で聞き取っていたのですが、その右耳も中耳が炎症を起こしていました。
 ところが、私は床屋と医者がとにかく大嫌いで、母親が怒号を出してもなかなか医院へ通いませんでした。
 その結果、中耳炎を収束させることができず、大学生の頃はもう耳垂れをしっかりと流しておりました。くさい汁が流れてくるということは、鼓膜に穴があいているということです。右耳の奥は腐りきっていました。
 いつも中耳炎を起こしていたから、海とプールが縁遠いものになりました。当然泳ぐことはできません。
 私は山登りが好きで、要するに大自然が大好きなので、もし泳ぐことができたなら、きっとグレートバリアリーフの潜りなんかも熱中してやっていた可能性が大いにあります。だから、耳の病気のせいで海に行けないのはやはり大変残念です。
 今若いときのことを振り返ると、邦画よりも洋画の方が好きだったのも、耳が影響していたように思われます。
 何しろ映画の姿三四郎とか七人の侍とか羅生門とかを見ても、役者さんの声がよく聞き取れません。その点字幕の洋画でしたら、全くイライラする必要がありません。だから、洋画はよく見ました。ヒッチコックのものや西部劇やら戦争物です。
※ネットで得た情報より
 慢性中耳炎というのは、多くが急性中耳炎からの移行である。まず、体力、体質、原因菌、治療の不備から鼓膜穿孔が起こり、半永久的に閉じなくなった場合で、かつ、滲出性中耳炎(非炎症性)や繰り返す急性中耳炎(炎症性)の症状を起こした場合をいう。
1 鼓膜穿孔がある。(鼓膜に半永久的な穴があいている)
2 長期にわたって耳垂れ(耳漏)が続く。
3 耳が痛くなったり、発熱したりすることは通常ない。
4 難聴、めまいの原因になることもある。
5 真珠腫の原因になる。
1と2が必須要件です。
 左の耳が殆ど聞こえず、右の耳は耳垂れを流して(それも、相当くさい汁)、いつもキーンと耳鳴りがして、聴力の低下を来しているのでは、どうしょうもありません。(私は子供の頃から、どうも孔と匂いのする汁に深い関わりがあったようです)
 汁が長い間流れないときがあってホッとしていても、耳かきを使っていると、焦げ茶色した松ヤニみたいな塊がごっそり取れました。やはり強い臭いがしました。
 大手の企業に就職ができたのが不思議です。現に、某製鉄会社と某建築会社と某大手商社には採用されませんでした。いずれも面接試験の時相手の声が普通の音量で、私には低すぎたのです。
 たまたま声の大きな人に面接された某社に、私は採用されました。
 私は名古屋生まれの名古屋育ちだったので、配属の希望を尋ねられたとき、第一希望は札幌、第二希望は仙台と申告しました。職種の第一希望は人事勤労、第二希望は営業としました。
 地方都市での勤務を選んだのは、そういう小規模の事務所の方が、東京や大阪などの大きな事務所で勤務するよりも広く物事が覚えられるだろうし、大拠点には30代になってから行けばいいと考えたからです。
 確かにその考えは間違いではなかったけれど、後から振り返ると、小規模の事務所でのOJTでは、何だか浅い知識しか身につかなかったようです。注:OJT=On The Job Trainning
 任地は仙台と決まりました。まあ、言うなれば青雲の志で、私はピッケルを持ち、登山靴を履いて、キスリングに本をいっぱい詰めて赴任しました。
 そこで困ったのは、配属先の職場でNo.2に当たる人の声が低かったことです。この人との会話には大変疲れました。
 なぜ大きな声で喋ってくれないのかしら。意地悪な人だ。そう思っておりました。
 2年ぐらいしてから、私のサラリーマン人生を暗示するような出来事が起こりました。私のサラリーマンとしての原体験となった事件です。
 その頃総務課長さんが代わったのですが、新任の人が難聴でした。で、いろんな行事の進行を担当されることがあるのですが、その時に事務所の所長さんが指示を出し、ご本人が聞き取れずにうろうろしていると、皆の面前で罵倒をするわけです。
 それだけでなく、指示が聞き取れなくて戸惑っていることが明らかなのに、ご本人が機転が利かないから適切な行動が取れないのだとするような判定を下してののしり、また、それを聞いた仲間の管理職の面々がニヤニヤしていました。
 私は、会社にもいじめがあるのかと暗澹たる気分になりました。耳が遠いということは、企業の管理職としては致命的な欠陥なのだと思い知らされました。
 お見合いをするときも困りました。最初の相手は日本画家の娘ということで、細身の体で色白の、聡明そうな美人でした。私はたいそう気に入ったのですが、うまくいきませんでした。
 なぜかというと、その娘さんは大変声がか細かったのです。私は聞き返すことが大変多かったし、とにかく会話がへんてこになりました。
 二人目のお見合いの相手は、声に元気があって、一応会話が成立しました。それが現在の、料理上手な奥方です。
 結婚して4年目、テレビの音量が大きすぎることで、女房に怒られる日々が過ぎ、既に長男は3歳になっておりました。
 私の耳は、相変わらずくさい耳垂れが出っ放しでした。耳鳴りもひどくなりました。痛みも感じるようになりました。
 不安になり、通院する医院を変えてみました。そして、初診で医者に怒鳴られました。
「ばかっ! 今までどこの耳鼻科に通っていたんだ! ひどい藪医者だ。こんなになるまでほったらかして! これはすぐに手術しなければいけない。これでは脳までやられてしまうぞ。脳がやられて、バカになったら、どうするんだ!」
 その医師は、私が通っていた医院の治療方法(液体の薬剤を耳に流し込む)が逆効果のものであることを指摘し、どんな耳鼻科の医師だって即刻手術の必要性を察する症状なのに、そんなことも判断できないとんでもない藪医者だと断定し、同業者として何らかの指摘・告発をしてやる、とまで言って憤慨していました。
※再び、ネットで得た情報より
 怖い中耳炎は、鼓膜に穿孔があいて、耳垂れがでる状態〜耳の骨を破壊し、病変が奥へ食い込んで行くタイプのもの。耳やその周辺には、脳を始め大切な器官が密在している。そのため、このタイプの中耳炎が進行し、骨の破壊が生じると、隣接する重要な器官に悪影響を及ぼす。
 たとえば、耳だれがかなり以前からあったのに放置した。そしたら、風邪をひいたある日突然耳から血が出てひどいめまいがする。おまけに片方の顔が曲がってしまい、目や口が閉じなくなった(顔を動かしている神経神経がダメージを負った状態で、顔面神経麻痺と言う)。
 これは真珠腫性中耳炎が急激に悪化して、内耳を侵したものと想像される。抗生物質の手に入らなかった昔なら、とっくに頭をやられ髄膜炎になっていたという事態である。
 私はそれまで、耳の手術というのは脳外科手術と同様にとても危険であって、成功率がとても低いから、手術を勧められても応じるものではないと聞いていました。
 その不安を医師に訴えると、私の気持ちとは全く反する次の説明を受けました。
1.君の耳は、すぐに手術をしないと、とんでもないことになると思う。薬の服用では直らない。
2.故郷(名古屋)に、君の腐りきった耳を手術できる名医と必要な設備を備えた病院はない。
3.東北労災病院の耳鼻科の部長の湯浅先生は、日本の耳鼻科医の中では5本の指に入る名医だ。
4.耳の手術は精密工芸のようなもので、経験豊富な医師が顕微鏡下でメスを入れる。
5.東北労災病院の耳鼻科には、難しい耳の手術に適した最新の設備が置いてある。


 私は東北労災病院に入院し、手術を受けました。
 生まれて初めての大手術で、大変心配したのは当然ですが、これが何とも残酷な思い出であります。全く想像をはるかに超えるものでした。
 全身麻酔では回復が遅いからという説明で、部分麻酔でやることを承諾させられました。頭の右側だけをつるつる坊主にさせられて、まるで化け物のような風貌になりました。もうたっぷり不安になりましたが、それから後が凄まじいのです。
 部分麻酔だから、私には意識があり、手術の一部始終がわかります。これが、たまりません。
 先ず消毒液をたっぷり含んだガーゼで耳の後ろを拭かれます。すっごくひんやりした感じです。次に、耳の後ろが8センチぐらいの長さでしょうか、メスが入っているのがわかります。私の頭の右側が半円形に切られています。
 次の感触は、皮膚の裏までメスが入って、皮膚を頭蓋骨から切り離し、ベローンと耳たぶが持ち上げられるような皮膚感覚です。耳たぶが根元から遠ざかるのがわかります。
「メス!」とか「ここ、持って!」とか「血、拭いて!」とかの声が聞こえます。
 ウィーンウィーン、すごい機械音が耳元でしました。
 何や!と思うと何かが耳の後ろに当たります。ガーッ。バリバリバリー。頭蓋骨が砕けるのがわかります。私の頭蓋骨が耳の後ろで開けられているのです。私の頭は物体のように振動しています。自宅の前のコンクリートの道路が修復工事されているのを思い出します。
 看護婦が私の手を握っています。私はその手を思いっきり握りしめました。
 何やら刃物のようなものが頭に当たったようです。すぐにガーンガーンガーンと衝撃が走ります。想像すると、のみ状のものが耳の後ろに当てられ、ハンマーで叩かれているようです。墓石の製作みたいな状況です。
 痛みはないけれど、すごい衝撃。すごい打撃音。まさしく斧で殴られる鉄鍋の中に自分がいるみたい。なんという手荒な!と驚きました。壊されるーぅ!
 いつのまにか気を失っていたようです。でも、時々執刀医の声が入りました。
「まだ奥も腐っているぞ」
「これはとろう」
「こりぁ、時間がかかるなあ」
「こんなに奥の骨までとったのは初めてだ」
 言っていることは、何やら私を恐怖に陥れさせる文言ばかりでした。
 私は右耳の手術を受けているのだから、左脇を下にして寝ています。
 ところが私は、とにかく高校3年の頃より、長年右耳から耳垂れを流しているので、膿汁が耳の奥に流れ込まないように、14年間いつも寝るときは右脇を下にして寝ていました。左脇を下にして横寝したことが一切ありません。
 それなのに、単なる安置台の堅いベッドに左脇を下にして横寝すると、最初から違和感たっぷりです。
 その姿勢が何時間も続くと、骨盤のかどが内側から皮膚を押しつぶしているようで、外腿が超重量物で圧迫されているようで、踝が卸し金に当てられているようで、足も腰も脇腹も肩も首筋も、全身が痛くなってきて、もう拷問と同じです。いや、拷問を超えるものになりました。
 身体を紐で固定されて、横寝していること自体が、砂粒をほんの少量まいた石畳の上に裸の足で正座しているような、超々試練になるのです。しかも、そこら中が猛烈に痒いのですが(多分麻酔薬か抗生物質に対するアレルギー反応でしょう)、その痒いところがかけません。
 これがもう、他人には想像できないつらさです。
 私の顔にはガーゼがかけられています。息はガーゼの中にこもります。
 その息のくさいこと! もう生涯嗅いだことのない悪臭です。昭和40年代の製紙工場のにおいと豚小屋のにおいと病院の厨房のにおいと堀川のにおいを合わせたようなものです。
 普通は、自分が発するにおいというのは、嗅覚がなれてしまって、それほどにおわないものなのですが、その時は、自分でも気を失いそうな悪臭です。ガーゼですから、においが飛び出して看護婦さんに嗅がれるのがイヤだと思っているうちに、また気を失いました。
 気がつくと、耳たぶが引っ張られている感触がありません。それどころか元の位置に戻り、ガーゼで頭を巻かれている感触です。手術が終わったようでした。
 看護婦さんが3人ほどせわしなく動き、金属製の器具を片づけているのに、何やらすっごく静かです。
 音が殆ど聞き取れていないようだと、そのうちに気づきました。私が目を開けたことに気がついた看護婦が「頑張ったわねえ」と声をかけたのは何となくわかりました。
「さあ、お部屋に戻りましょうね」
 看護婦さんが三人がかりで私を手術台から移動ベッドに移しました。50キロ程度の物体でも大変難儀そうな雰囲気で、私は落とされるのではないかと心配しました。
 手術室の扉が開くと、妻が心配そうな顔をして、長男の手を引いて立っていました。
 手術終了者用の個室に入り、ベッドに落ち着くと、棚には私の物が置いてあります。私が手術を受けている間に、女房が大部屋から運んだのだなと思ったとたんに、私は声を上げて泣きました。
 翌日以降いろんなことがわかりました。
 殆ど脳膜に達するほどに腐食が進んでいて、より重大な事態になる寸前であったこと。若い執刀医にとっては未経験なほどの腐食状態で、病変のすすみ具合に驚きながら手術をしたということ。耳小骨3つにまで腐食が及び、もう使い物にならない状態になっていたということ。手術室にいた時間というのはとても長かったこと(10時間)。
 手術後の私の右の耳は、入り口あたりは普通の形状をしていますが、奥の方は巨大な空洞があくことになりました。見事に腐らせていたという証拠です。
 でも、そんなことはどうでもいいことで、私にはもっと驚愕の事態が勃発しておりました。
 左の耳は既に聴力を失っており、腐りきった右の耳で音を聞いていたのに、その右の耳からも聴力を失いました。何やらやたらと静寂になってしまったのです。
 腐食状態がひどすぎて、根治優先とせざるを得ず、聴力の確保ができなかった、と医師は説明しました。
 私は青ざめました。手術をしたら耳が聞こえなくなるとは聞いておりません。聞いたかもしれないけれど、そんなことは認識していません。
 会社へ退職願を出さねばならないのだろうか、労働組合は守ってくれるのだろうかと、悪いことばかりを考えていました。この世に神はいないのかと呻きました。
 女房に申し訳がない。それがもうたまりません。子供も作っておりました。長男は3歳です。
(どうしよう。どうしよう。どうしよう。とんでもないことになった。どうするんだ。こんなことになるとわかっていたら、結婚なんてしないし、子供なんか作らないぞ。まるで映画だ。冗談じゃない)
 眼は看護婦のけつばかりを追っていても、心は涙まみれです。
 私は「このままでは社会復帰ができません」と先生に訴えました。
 すると先生が言いました。
(先生はむちゃくちゃ大きく口を開いています。耳元で怒鳴っても、聞こえる音は1キロ先の山の頂上から届いているようです。ときどき紙に書いてもらっての問答でした)
「君の左耳は、聞こえを回復できると思う。右耳の傷が治ったら左も手術をしよう」
「どうかお願いします。何としても、僕の耳を聞こえるようにしてください」
 私は号泣きするように先生にお願いしました。
 入院するときには予想もしなかった二度目の手術に不安を抱きながら、正月を東北労災病院で迎えました。
(今これを書いている私は完璧に泣きじゃくっています。私には、一番思い出したくない、それこそ、思い出がよみがえろうとするたびに記憶の蘇生を遮断していた、つらい出来事です。手術中と手術後、あのときの恐怖、未来への恐れ、親と妻と子供への申し訳ない気持ち、激しい絶望感……)
 年が明けて、右耳の手術からは3週間後、今度は全身麻酔で左耳の手術を受けました。
 子供の頃、長谷川一夫さんが主演の雪之丞七変化という映画を見ました。主人公が眼病にかかり、めくらになるのが必至のところを、大変な名医が現れて目が見えるようにし、主人公が号泣きして感謝します。
 私は雪之丞と全く同じ気持ちでありました。雪之丞の眼帯がとられる瞬間が、私の包帯が巻き取られる瞬間と同じです。
 少しは音がとらえられたからホッとした反面、こんな程度の聞こえなのかとがっくりしました。
「傷口の回復と共にもっと聞こえるようになるよ」の説明が気休めではないかと危惧しながら、手術から10日も過ぎると、私は左の耳で音をとらえるようになっていました。
 執刀した医師から退院予定日のおおよその見当と共に次の説明を受けました。
1.左の耳は、陥没した鼓膜のめり込んだ箇所を切り、お尻からとった皮膚を当てた。
2.左の鼓膜が今後陥没することがないように、セルロイドの板で支えておいた。だから、聞こえは少し悪い。
3.右の耳は悪性の真珠腫だった。これは再発の可能性があるから気をつけなさい。
4.右の耳の聴力は、伝音器官がなくなっているから、回復不可能だ。
5.右の耳の鼓膜は外から物が中に入らぬようにするだけのための皮膚である。耳小骨がなくなつた分、鼓膜は通常の位置よりも少し奥に張った。
6.耳に水を絶対に入れてはならない。洗髪も気をつけてするように。
 左耳の聴力は、手術前の右耳程度に向上しました。(正常人の聴力の70%ぐらい)
 一方、右耳の聴力は、手術前の左耳程度に落ちました。(正常人の聴力の30%ぐらい。3割というのは殆ど聞こえないということです。目の前で自動車同士が正面衝突したときに出る音が、机から画鋲が落ちたときの音程度です)
 このことから、私は人体の不思議を体感しました。私は物心ついてからずーっと右の耳で音を聞いていました。(すると、脳の左側で解釈をしているのでしょうか)
 ところが、31歳になって突然左の耳で音をとらえるようになったのです。するとおかしなことになりました。声が聞こえていても、内容の解釈に時間がかかるのです。ちょうど英語を聞いて日本語に変換して理解しているような感じです。脳を使う部分が変わったような感触でありました。
「正面の右にレントゲン室がありますから、そこの前で待っていてください」
 正面って何だったっけ、右ってどっちか、レントゲンって聞いたことがあるぞ、そんな感じです。脳の中で、一々何か扉を開けねばなりません。要するに、ものすごく頭が悪くなったような気分です。
 そして、その年退院して5ヶ月後、私は東京の本社へ転勤を命ぜられました。難聴であることから、その人事異動には反対もあったらしいのですが、私は志を胸に秘めて上京しました。

 耳の病名は、滲出性穿孔性真珠腫性慢性中耳炎というものらしいです。これが、手術してもよく再発することがあるとは、本にも書いてありました。
 いくら性が好きでも、滲出性から慢性までこれだけ変な性がいっぱいつくとねえ。全く不気味です。
 真珠貝の中に種になるものがあって、そこに分泌液が層を重ねて真珠が成長するように、真珠腫は耳の奥で育っていきます。ガンと同じように自分の細胞なのでしょうか。名前は美しくても怖い病気です。
 私は、耳の聞こえが回復することは望めなくても、何とかこのややこしい病名の忌まわしいものが再び出てこないことをひたすら願っていました。テレビで松坂慶子が真珠のネックレスをつけていると、このバカッ!と呟いていました。
 前の勤務は地方都市の営業所だったから、声がか細いと、「覇気がない」と指摘されるところです。仲間の話す声は元気が良くて、総じて声が大きく、面と向かっての会話で聞き取りにくいことがあまりありませんでした。
 それに対して、本社のスタッフ部門での勤務は、誰もが物静かな会話、抑えた口調の話しぶりをするから、声が聞こえにくいことには大変困りました。私はかなりストレスをためておりました。
 そして、転勤して2年後、私が33歳、長女が生まれた頃、ある日右耳の奥に閉塞感のような感覚がありました。何かが耳の奥に入ったのだろうかと思って、頭を傾けました。
 すると、外耳道をすーっと液体が流れる感覚があって、ハッとしました。指についた液は茶色っぽくってくさいです。
 あの忌まわしい耳垂れがまた流れてきました。何ということでしょう。
 私は手術の苦しさを思い出し、家族の苦労を考えて、青ざめました。入社して10年目、仕事にしたって、会社にとって重要なことをこなしています。休暇は申し出しにくいです。
 それに、二度あることは三度あるといいます。二度目の手術は忍ぶとしても、三度目があってはならない。そう考えて、八重洲のブックセンターで医学関係の本を漁って、名医と言われる医師を調べました。
 そして、選んだのが、秋葉原の神尾病院です。東北労災病院の耳鼻科は日本で5本の指に入ると言われていたけれど、神尾先生も技術的に最高峰と言われておりました。
 個人病院、しかも、それまで私があまり聞いたことのない帝京大学の先生ということで、不安でしたが、名医の噂を信じて診察を受けに行きました。
 私がすべてを説明し、診察が終わると、神尾先生が言われました。
「これは真珠腫が再発したのでしょう。こんなに早く再発するとは、前の手術は上手とは言えませんね」
 こんどは全身麻酔でした。わけを聞くと、「耳の手術は、顕微鏡下で行う精密なものであって、患者が1ミリでも動いたら困る。従って、全身麻酔しか考えられません」とのことです。
 私の頭にはクエスチョンマークが燦然と輝きました。東北労災病院はどういういうこと?
 全身麻酔の手術というのはあっけないものでした。尻たぶに、むちゃくちゃ太い注射器で注射され、まるで無声映画の滑稽なシーンのようでした。数を数えさせられて、麻酔が効き始めたと思ったら、意識がなくなりました。
 気がつくと、頭を包帯巻きにしたまま個室の闇の中に寝ておりました。何があったのかはさっぱりわかりません。
 包帯が取れた頃、神尾先生が言われました。
「以前に君が受けた、左の、聴力回復手術はうまくいっているようだけれど、右の手術は、私が跡を見る限りではなっていない。へたくそな手術です。私が最初にやっておれば、こんなに早く再発することはなかったし、聞こえも、もっと回復させられたと思うよ。君の耳がもっと聞こえるようにしてやりたかったけれど、ごっそりえぐられてしまっているので、どうしようもなかったですねえ」
 そう言われても、左の耳できちんと音が取れる以上は、私は東北労災病院に腹を立ててはいけないと思っていました。
 私は東北労災病院で2ヶ月、神尾病院で1ヶ月の入院をしました。勤めを休んだ期間は合計で5ヶ月です。脳膜炎になる恐怖はたっぷり味わいました。乳飲み子を抱えた女房には苦労をかけました。
 退院後再々発を大変心配しましたが、その後20年以上再発しておりません。もう神尾先生には大変感謝しております。
 退院するとき、今後20年間真珠腫が再発しなかったら、神尾病院には5百万円を寄付しようと思っていましたが、風俗遊びをしすぎて全然その余裕がありません。
 退院後に調べたのですが、真珠腫の発生原因は次のようなものらしいです。
 鼓膜に穿孔があく→自己治癒力の作用で、鼓膜の外側すなわち外耳道の皮膚が鼓膜の内側に侵入する→内耳の皮膚は、外耳道の皮膚(つまり、耳たぶや指の皮膚と同じ組織)とは組織が違うので、内耳の中では、この新しい皮膚に対して戦争が起きる→侵入した皮膚は攻撃を受けて丸っぽくなる→これが腐敗する。
 たとえて言えば、小陰唇の内側の皮膚が傷ついた時に、大陰唇から小陰唇の表側まで連なる皮膚が突然暴走をはじめ、触手を伸ばすように小陰唇内側から膣道に入り込み、ぬめぬめした粘膜がカサカサした皮膚に置き換わって、これが子宮口を越えて子宮の中まで侵入し、子宮の組織がこれを異物と認識して攻撃する、こんな事態ですか。
(こんな症状を来すような遺伝子の突然変異があったら怖いですねえ! たとえば、瞼の内側の皮膚が、瞼の表の皮膚に取って代わられたら、かさかさして、痛くて、湿り気と不調和で、大変ですよ)
 かなり以前の記憶ですから、これが正しいかどうかは知りません。
 真珠腫は再発こそしなかったけれど、私はその後、難聴で苦労しました。
 何が困るって、面と向かい合ってお喋りするときは何とか聞き取れるけれど、応接セットのようなところで間隔をあけて対峙しておれば、もう声が聞こえなくなるのです。もちろん会議でも声が聞きとれません。
 20代30代の頃というのは、それほど会議に出ないし、出ても実務的な会議で、いつの間にか意見が衝突して皆の声が大きくなるから、それほど困ることがありませんでした。
 しかし、下級管理職になると、出席する会議は概ね静かに進行します。傍聴的な出席ならともかくも、自分が司会役とか重要な参加者であるときは、もう聞こえないことがつらくてなりません。
 会議では話を聞き取るのに大変苦労をしたけれど、面と向かい合って喋る会話は、結構音量があるもので、それほど困ることはありません。
 面と向かっておれば、片耳がつんぼでも、もう片方の耳に70%の聴力があるなら、大抵の声は何とか聞こえるものです。
 しかし、人事とか重要な経営事項の話になると、どうしても小声になるから、もう相手の声が聞きとれません。これでは管理職としてはどうにも困ります。
 女性と子供の声は割にとらえることができるけれども、肝心の中高年の男性の、低くて語尾不明瞭な声が私の人工鼓膜を全然振動させてくれないのです。
 勤務していて、悲しいこと、つらいこと、いたたまれないことには際限がありません。
 そういうわけで、とにかく、企業の勤務人としての私の至らぬところはすべて聴力不足に起因すると言って間違いないです。
 長年サラリーマンをしてきて数多くの上司に仕えてきたわけですが、人事異動で上司が替わることになった都度、私は新しい人が声の大きい人であるかどうかを常に気にしてきました。
 声の大きな人であるとわかるとホッとしていましたが、そうでない時には実につらかったです。この苦労のレベルが高いことは、聴力が健常な人には想像ができないと思います。工員・職人の類なら、事務職よりは苦労が少ないのですけれどねえ。
 聴力異常が長年続いた結果、私は次の状況に至っています。
 先ず、難聴者の常として声が大きいです。
 次に、体質的には音楽が好きであるのに、片側の聴力を失っていることから、ステレオ音楽を愉しく鑑賞できません。それが残念です。
 更に、片耳聴取で、音源の位置がさっぱりわからないことから、事務所で電話をとる習慣がありません。どの電話が鳴っているのか全くわからないからです。
 すれ違って、声をかけられても、考え事をしているとわかりません。他人から見たら随分横着で尊大な人間に見えることでしょう。
 私が女好きであって、たとえば男と酒を飲むことはそれほどしたがらないのも、聴力が悪いことが大いに影響しています。
 裸の女性と二人っきりになっておれば、私の左耳は相対的に高音領域に反応するから、男の声よりも聞こえやすいし、声の音源が平均70センチの距離だから、とにかく会話に苦痛感がありません。
 ところが男が大勢で酒を飲みに行くと、(1) 女の声よりも低音だから耳の聞き取り力が一段と落ちる (2) 自分がものをかんだり飲み込んだりするときに頭蓋骨の中で響く音は耳から入る音を妨害するが、その妨害の度合いが、健常な耳の人よりも激しいから、人の声を聞こうとすると、ものを噛むのをやめたくなる (3) 声の音源が平均130センチぐらいの距離まで遠くなり、しかも、周りに他の客がおれば声をひそめるから、声が大変聞き取りにくいという結果になります。
 ぎりぎりの聴力で人の声を聞き取っているから、会食などは大変つらくて、砂を噛むような想いがします。
 まあ、ありとあらゆる意味において、風俗店で女と二人っきりになるというのは、私に心の安らぎをもたらします。
 子供の頃に中耳炎をきちんと治療していたら、こんな結果にはならないわけですから、まぁ皆さん、お子さんの中耳炎には気をつけてください。

 耳腐りのおかげで延べ3ヶ月入院し、いろんな発見がありました。
 先ず一つは、会社の仲間はなかなか冷たいということです。
 入院手術を不憫がるというよりは、この忙しいときに長く休みやがって!ということなのか、他人の不幸は我が身の幸福ということなのか、ほっとかれたという意識しかありません。
 髪の毛が片側だけ坊主になったみっともない頭髪だから、何度も見舞いに来てくれずに殆ど放ったらかしにされたのは、むしろありがたかったという気持ちもあるけれど、仕事仲間というのは仕事だけのつながりだとも思いました。
 人にとって一番大切なのは健康だということがつくづくわかりました。
 二つ目は、病院の大部屋に関することです。
 人間は、基本的に同質の者が集まろうとする傾向があります。たとえば2ちゃんねるのエロ系の掲示板では、見事なまでに、知的レベルの低さが同質で、思考が浅はかで、嗜好を同じくする者が集まっています。
 ところが、病院の大部屋というのは、同質の人間でなくても同室ですから、気持ちが大変落ち着きません。
 これは、奥方が見舞いに来ても、パンティの中へ指を差し込みにくいことだけが原因ではありません。私はとにかく病院の大部屋がイヤでたまりませんでした。
 三つ目は、私が絶望的に薬に過敏であることです。
 とにかく手術がすんだ3日目ぐらいから、私は40度の熱に苦しめられます。麻酔薬、消毒薬、抗生物質、こういったものに完璧に反応します。全身にすごい発疹が出ます。
 大人の高熱というのはとってもつらいです。その上に全身が猛烈なかゆみにおそわれ、筆舌に尽くしがたい苦しさです。死んだ方がましだと思いました。
 20代30代の手術はともかく、40代になると私はますます過敏になって、手術前に反応のチェックをする際、どの薬剤にも私が強く反応するもんだから、医師が「あなたは安心して使える消毒薬と麻酔薬と抗生物質がないじゃないですか!」と驚いておりました。
 私の肉体になじむ液体は、水道の水とみそ汁とマンコ汁だけであります。
 歳をとるに従って薬への反応が強くなるので、私はもう手術は無理だとまで考えています。
 四つ目は、大手術というものは全身麻酔がいいということです。部分麻酔手術は人間に行うものではありません。あれはとっても残酷です。
 五つ目は、音を聞き取る耳が右から左へ変わった時の不思議な感覚です。
 私は多分幼稚園児の頃から音を右耳だけで聞きとっていたのに、31歳になって突然左の耳だけで聞きとるようになったのです。
 人の声を聞きとる時の、脳細胞がストライキを起こしたような、まるで幻覚状態のような、突然愚かになったような脳の状態を経験した人というのは、世界中探してもかなり少ないでしょうねえ。
 六つ目は、病院の食事が絶望的にまずいということです。
 どうして皆さんがあんなものを口に入れることができるのか、私は不思議でなりません。私は、入院すると、毎日缶詰の方がいいです。
 どこの病院も、もう調理室に近づくと、家畜のえさのにおいしかしません。史上最悪の食事です。子供の頃の学校給食と同じで、私には口に入るものがありません。無理に入れると、嘔吐感だけが迫ります。
 私は病院に入れば、食事だけで死期が近づきます。ウエストの括れが強調された看護婦の制服を眺めるのは拷問と同じです。
 だから、ガンとわかっても、アレルギー反応を起こすような薬を使わず、北朝鮮の収容所に劣らない食事とは接触をさけ、要するに入院なんかせずに、ただひたすらおまんφを舐めながら、死を迎えたいと思っています。
 そのとき、難聴という長い友達とようやくおさらばできます。
 この後24年間、主力の左耳は平和に推移した。ところが、57歳になって爆発した。左耳が3回急性難聴になり、私は2度の入院、投薬をした。さすがに聴力がガタガタになった。
 右耳の真珠腫再発はないようだ。それが救われる。

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