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母の死

 2015年春、母が92歳で亡くなった。寡婦になってから丁度30年後、自宅で所謂老衰死に至った。自宅で死を迎える人が少ないだけに良かったと思う。
 その日朝起きた時はいつもと変わらなかったが、朝食の後気道閉塞の感じで様子がおかしくなって、医師に往診を頼んだ。(また、いつもの昏睡か)と思っていたら、驚きの宣告を受け、その時はさすがにショックだった。
 その母の死について書くが、母の死を想定して 2015年1月に母の固定性預金について対策したところから始めたい。ここで書くことは次の3点全てに該当する人に参考になる。
(1) 自分は被相続人にあたる親と同居していて、親が死ねば喪主になり、非同居の法定相続人たる兄弟・姉妹が最低1人いて、被相続人の伴侶は既に他界している。
 同居してなくても、自分が専ら介護・介助にあたっている場合を含む。
(2) 相続財産が課税対象になるほど多額ではなく、うち不動産は親(及び自分)の居住の用に供している土地・建物のみである。
 その不動産の相続登記の際に、兄弟・姉妹が何らかの権利を主張することがない。
※ 要するに、生前に然るべき財産分与を得ているとか、嫁に出たとか、養子に出たとかの状況にあって、遺留分として定められた額まで与える必要がないと被相続人が認識していて、またそれを受けて、居住用の不動産に関しては他の相続人がすんなり登記を認める場合である。
(3) 預貯金の中から他の相続人に渡すべき金銭の額を親から指示されている。
※ 親の指示がなくとも、相続財産の中の貨幣性資産から然るべき金額を他の相続人に渡そうと考えている場合を含む。
 非該当の人には次に書くことは有害である。非該当の人は、例えば、他の相続人に無断で相続財産を一切左右してはならないし、相続人が集まってきちんとした遺産分割協議をすることが必要になる。

 数年前妻の父が亡くなった時、妻の兄(父と同居)は葬儀費用に父の銀行預金をあてにして、これを下ろすのに厄介な手続が必要になった。私の妻まで実印を求められて大変面倒な想いをした。田舎のことで、父の死がすぐに金融機関に知れ渡り、翌日には口座が止められたのだ。
 それで、死去の直後に口座が止められるととにかく面倒だから、私の母の死が近づいたと思ったら、さっさと銀行預金などを移動するよう旦那(私)に言えと妻は実家からアドバイスされていた。
 2015年に入って母の衰弱が進行し、(いよいよ近そうだ)と考えて、三菱UFJ信託銀行の母の口座(定期預金、普通預金)を解約し、それを近場の某銀行の母の口座に送金することにした。
理由は
(a) 三菱UFJ信託銀行が我が家からとても遠いところにあった。
(b) 本人以外のものが手続きすると、銀行窓口はなんやかやと手間取らせることが予想された。
  だから、早めに取りかかりたかった。
 それで、三菱UFJ信託銀行の予想外の堅さに怒り狂うことになった。
 そもそも数年前同行に私が母の代理人になる届けを提出してあった。この届けは、母を窓口まで連れてこいという要請まで受けて、大変手間をかけたものだ。母が銀行まで行くのは近い将来困難になるだろうと思うし、本人以外が預金の引き出しを代行するのはとても難しくなったと認識したからそのように手配した。
 で、代理人届が出してあって、他行の本人口座への送金の依頼であるのにもかかわらず銀行はすんなり受けつけてくれないのだ。そこまで頑なだとは驚きで、怒り心頭だ。
 三菱UFJ信託銀行が「(母が)窓口まで来られないか」と聞くから、私は「ロコモ障害で無理」と答えた。更に「母は電話に出られないか」と聞くので、「寝たきりで電話に出られないし、ボケが進んでいるので会話が難しい」と答え、「だから、代理人届を出したし、代理人の依頼としてそのまま処理してほしい」とはっきり求めた。
 結局私は2時間近く待たされた。
 帰宅してから妻に聞いた。銀行から電話があり、母を電話口に出せと言う。寝たきりの衰弱ぶりだから、妻は携帯電話にかけ直すよう求めて、それで母が銀行の担当者にOKの返事を言った。
 道理で時間がかかったわけだ。銀行は私の説明を無視して、代理人届の存在も関係なく、勝手に家に電話した。まるで犯罪者扱いだ。同居の息子なのにこの扱いは何だと思う。本人以外では預金をなかなか引き出せないことがわかっていたから、母がまだ何とか動ける頃、タクシー代を5千円以上使って母に難儀な思いをさせて銀行まで連れて行き、代理人届を出した。だから頭に来る。
 例えば、20年ぐらい前なら、印鑑と預金通帳さえあれば、本人以外の者が手続しても銀行は応じたと思う。しかし、現在はご本人が窓口に行き、身分証明になるものを持参しないと、引出は先ず難しい。とにかく代理人届が無視されるとは思いもよらなかった。
 だから、親に 定期預金→普通預金 の手続をさせ、その後はATMでこまめに下ろすのが一番良い。
 それにしても、母に無断でしたことなのに、惚けた母が銀行から確認されて、とんちんかんな返事をするとか「定期預金の解約なんてしません」とか言わなかったから何とか事が運んだ。
 同じ頃郵便局の母の定期預金を解約して普通預金に入れた。郵便局も「母が窓口まで来られないか」と聞いたが、ごく短い問答ですんなり受け付けた。あの様子なら、他行送金も受け付けたかもしれない。(こちらは代理人届を出していない!!)
 郵便局は銀行と比べれば相当柔軟だ。

 介護保険制度の要介護度だが、次のように定義されている。
要介護2──中程度の介護が必要な状態
    一人で立ち上がったり歩けないことが多い。排泄や入浴などに一部または全介助が必要。

要介護3──重度な介護が必要な状態
    一人で立ち上がったり歩いたりできない。排泄や入浴、着替えなどに全介助が必要。

要介護4──最重度な介護が必要な状態
    日常生活を送る能力がかなり低下。入浴や着替えの全介助、食事のときの一部介助が必要。

要介護5──過酷な介護が必要な状態
    生活全般にわたって全面的な介助が必要。意思の伝達がほとんどできない場合が多い。
 前田利家と豊臣秀吉と徳川家康は要介護3以上の時期が半年以内で済んでいたと想像する。
 一方、伊達政宗と徳川吉宗は要介護3以上の期間が長かったようだ。本人は相当つらかったと思う。独眼竜とか暴れん坊将軍とか格好良く描かれているが、晩年は要介護で大変なものであったらしい。でも、この2人は家臣や奥の奉公人による完全介護が得られただろう。
 上の定義に『過酷な介護』とあるが、過酷な介護の過酷さは本当に凄まじい。本人にも世話をする者にもつらい。PPK(ピンピンしていてころりと死ぬ)で人生は終わりたい。
 有名人が50代や60代の前半でガンにかかり、発見後数ヶ月で他界して──気の毒すぎる──という印象を世間が受けることがあるけれど、要介護期間が2ヶ月程度で(それも病院での介護にて)ご逝去できれば、これはもうご本人にも家族にも絶大に祝福できることだ。そう言えるほど介護は互いにつらい。
 手術の甲斐なく施術後すぐに死亡というのも、どうせない寿命なら、そのほうが実にありがたい。あっさり死ねるのは本当に素晴らしい。
介護殺人や心中、全国で179件…13年以降
  読売新聞 12/5(月) 6:11配信
 高齢者介護を巡る家族間の殺人や心中などの事件が2013年以降、全国で少なくとも179件発生し、189人が死亡していたことが読売新聞の調査で明らかになった。
 ほぼ1週間に1件のペースで発生しており、70歳以上の夫婦間で事件が起きたケースが4割を占めた。介護が必要な人が10年前の1.5倍の600万人超に上る中、高齢の夫婦が「老老介護」の末に悲劇に至る例が多いことが浮き彫りになった。
 読売新聞は、13年1月から今年8月までの3年8か月間に発生し、介護を受けている60歳以上が被害者、その家族が加害者となった殺人(未遂含む)や心中、傷害致死などの事件を対象に調査。警察発表や裁判資料のほか、湯原悦子・日本福祉大准教授(司法福祉論)の研究資料などから事例を収集し、分析した。

 老境に至っても、酒を飲み、女とやりまくって、タバコも嗜み、ありとあらゆる意味で不摂生のまま享楽に浸り、それで、重病を発症し半年以内に死ねれば、これはとても結構なことだ。要介護期間は1年以内に止めたいものだ。
 介護者が介護に疲れて被介護者を殺す、親を介護するために勤め先を辞めて故郷に帰り日々介護→生活保護、要介護の親がいて生活を支えるためにソープ勤め、こんな地獄の話をよく聞く。気の毒なものだ。
 母が要介護3になったのは他界の6年前で、それからすぐに要介護4になった。要介護5は2年前。
 母の介護については次の特徴があった。
 母自身に殆ど介護した経験がなかった/他様々なこと
 父は分家で、母の実家はやや遠いところにある。だから、母は旦那の親や自分の親の介護を殆どしてない。よって、介護する人の気持ちを慮るところはないと言ってよい。世話をする人に遠慮なく指示を飛ばす。労いの言葉を発することは殆どない。まるで華族のお嬢様だ。
 母がどういうタイプの人だったか説明する。
 食卓からベッドへ母を運び、母をベッドに安置する力仕事をしている最中に、「おい、襖が開いているから、閉めて」と言う。運搬を優先して戸を閉めるのは後回しにしているのに。
 掛け布団を掛け、枕と頭の位置を整えている最中に、「おい、足がよがんでいるから直して」と言う。頭が終わったら、足枕のほうを確認することを毎度しているのに。
 食べ物をスプーンで口に運んでいる時、ちょっと運びが遅いと「もっと早く」と言い、タイミングが早いと即座に「まだ!」と騒ぐ。
 母が誰も介護していないから、私と妻はそのようなシーンを見ることなく、要するに、介護教育は零で、私たちはヘルパーさんの動作で勉強するだけだった。
 私は腰痛持ちの難聴者で、母の言葉はかなり聞き取れない。そして、ペン以外のものを殆ど持ったことのない虚弱体力で、馴れた動作は腰の前後運動だけ。妻は身障者でヘルパーがつく身。我々には介護は大変な作業だ。
 両股関節が人工関節で身障者になっていた
 これは骨粗鬆症が原因で母は60歳頃に手術を受けた。人工股関節で90度まで曲げられないため、2級の障害者に早い時期からなった。その母がロコモ障害を来すと、介護にはとても厄介な面があった。
 寝返り、横寝が一切できない(しない)。従って、かなり早い段階で床ずれができた。糜爛し、かなり大変だった。
 足の親指の奇妙な病変と尻の激しい床ずれについては近所の皮膚科医院で施薬を受けていたが、ちっとも治らなかった。気の毒な症状が何年も出たままだった。
 たまたま母が聖霊病院に検査入院することになって、ついでに皮膚科で診てもらうと、何やら違う病名の診断を受け、「××と言われていたんですけれど…」と聞くと、「ああ、それと間違いやすいけれどこれは○△なんです」と説明された。
 勉強になった。(私は複数の医者の診断を受けるのは不可とする堅い性格)
 咀嚼や嚥下の支障から料理にとても工夫が要った
 要するに、早くから食事が家族と別立てで、妻は食事の用意が二重手間だ。おかずの好き嫌いも激しい。好みは圧倒的に高級な食材。特に、最後の2年間は自分で匙を口まで運ぶことができず、フル介助が必要で、食事が済めば入れ歯を取って、洗浄。もう摂食が一大格闘だった。
 排便困難が著しかった
 母は若い時から「うんこがどうのこうの」という発言が多かった。とくかく便通に苦労して、寝たきりになった頃には快便というものが殆どなかったと思う。排泄に当たっては、尻穴の後ろ側を指で強く押し続けることを求めた。もう壮絶と言えた。
 医師が「摘便ならしてあげますよ。言ってください」と言ったが、そこまでして貰ってはいない。
 幻覚・昏睡はよくあったが、概ね頭はしっかりしていた
 母の妹は結構早く認知症になったが、その面では存外しっかりしていた。
 ただその結果、注文がやたら多発した。そして、お嬢様育ちだから、世話をする人へ感謝の言葉を発することがあんまりなかった。所謂“小面憎い”タイプ。
 そして、90歳になっても美容院へ頻繁に行きたいという厄介な人。
 家族は本当に過酷で、お襁褓や糞便、三食との格闘という印象だ。私と妻の両方が3時間以上家を空けることはできない。月に何日か介護施設に世話をお願いするうちはまだ良かったが、車椅子に座っても自分で首が支えられない感じになると、介護施設(デイサービス)も母を受け入れなくなった。そうなると、もう隕石が我が家に落ちてくれと思うようになる。
 母は20代の頃は、近所にたくさんいた米軍相手の売春婦が兵士から英文のラブレターを貰うと翻訳を求めてきた。母が中学校の父兄会に出ると、仲間に「あの綺麗な人、姉さんかい?」と聞かれた。私が中学校に入った頃共働きに踏み切って、すぐに父の稼ぎを大きく上回った。商才には目覚ましいものがあった。50代60代ではとてもよく海外旅行をしていた。
 母と一緒に繁華街を歩くと(母は当時の名古屋の主婦の平均の5倍は繁華街を歩いたと思う)、40代の頃でも60代の頃でも、道行く人が男も女もよく振り返るのによく気づいた。
 物心ついた時からそういう経験をしていると、道行く人に視線を浴びせられまくられないような女は女ではない、人類には該当しない──という意識がついてもやむを得ない。
 テレビを見ていて、女の容姿の欠点をあからさまに挙げる癖がつき、それを聞く度にワイフは舌打ちして私を非難する。
 母は眼鏡も杖も雨傘もハンドバッグも、とにかく持ち物には相当なこだわりがあって、格別なものを使った。だから、その持ち物や髪型や衣服に赤の他人のご婦人からよく着目され、声をかけられた。美貌だからこそのことだ。まあ、異次元の一般人だったと言えた。寡婦になると60代でもそこらの爺さんから誘いをよく受けていた。(全て断っていたようだ)
 その母が無残な介護老人になるとは、私の目からはかなり奇異な感じであった。
 ヘルパーさんの話では、要介護度3〜5を考えて、子供の誰が相対的に親の介護・介助をしっかりやるのかは次の通りだ。聞いて驚く。
   実の娘 ×  息子の嫁 ×  息子 ○
「女よりも男のほうが優しいのね。でも、あまりに介護が大変だと男の人は切れる。切れると何をやらかすか恐いのよ、男の人は」
 お襁褓の中パットを買わない家がある。中パットなんて知れた金額なのにもったいないとしている。それで、お襁褓の中で出したウンコの始末を必ずヘルパーさんにさせる。紙オムツ全体が糞便まみれでパジャマにまでしっかり付着。もうかなわないそうだ。
 酷い夫婦がいるものだ。中パット 1,500円程度が買えないと主張する貧乏でも、自動車、テレビ、携帯電話などすべてそろっていて、外食もする。
 私が母の中パットを替える時( or 寝間着、紙オムツを替える時、用便の時)、ベッドから起こしてベッド脇の座敷トイレに座らせ、ズボンとお襁褓を下ろした。必要なことを終えると、母を引き上げ、ベッドの手すりを持たせて立たせ、ワイフが母の前から母を支えた(支えないと直ちに崩れ落ちるイカ・タコ状態)。そこで手早くお襁褓とズボンを引き上げる。寝たきり老人の場合、この作業がなかなか大変だ。
 死去の5年前からこうやっていたけれど、要介護5の判定を受けた頃には母の軟体人間の度が進んで、ワイフの支えがあってもどうにもならなくなった。
(ワイフは身障者だから常人の3割以下の力しか出せない。私が母を支える側に回っても、ワイフはズボンを引き上げられない)
 それで、母をベッドに寝させたまま交換作業をすることにしたが、このほうがうんと楽だ。ズボン、お襁褓、中パットの交換は本人を立たせてやらねばならないと先入観が強すぎた。
 それにしても、深田恭子や橘ゆりか、浅田舞、石川佳純、長岡望悠などが生理対策でつかう中パットには憧憬を覚えても、要介護者の中パットはもう悪夢だ。テレビで中パッドのCMが現れると、ちゃんと見てしまう。
 お襁褓の処理、着せ替え、座敷トイレ、本人の移動は私が担当した。介護施設のデイサービスとヘルパーさんの制度がなかったら、私は絶対に発狂していたと思う。とにかく6年間を考えれば、入院が必要になる病気に殆どならないから、全部が介護期間だ。ガンや心筋梗塞、脳血栓などで入院させておけば良いのとは全く違う。
 訪問入浴サービスなんかは本当にありがたい。都会に住むものだなぁとつくづく思う。そして、介護に携わる人の賃金がもう少し上げられないものかと思う。
 さて、寿命というのはあんまり意味がない。健康寿命がポイントだ。
 ロコモティブシンドローム予防啓発公式サイトでは
健康寿命とは、健康上の問題がない状態で日常生活を送れる期間のことです。平均寿命と健康寿命の間には、男性で約9年、女性で約13年の差があります。誰もが最後まで、健康でいきいきとした生活を送りたいと思っています。健康寿命を延ばしましょう!
 と訴えている。平均寿命と健康寿命とにこんなに開きがあるのには参るねえ。
 母は健康寿命が2009年(86歳)まで。すぐに深いロコモ障害に至った。
 2013年に(しっかり体を支えてやろうとする力強い)介助動作があっても、たった1秒間すら立つ(両膝を伸ばす)ことができなくなった。(そうなると、私1人で母をベッドから車椅子に移すこともかなり難儀になった)
 2015年1月には意識も一段と朦朧状態に至った。その後数ヶ月同じような厄介な状態が続いて、医師から「2日間の昏睡がよく起きるようになると、近いと思います」と言われた。死去はその数日後だった。
 5年の重度の介護からは解放されたありがたさはあるが(とにかくワイフも要介護者、私は大変!)、やはりショックが大きい。
 母の最後の頃は、意識がない時間が大変長いのに「坊はご飯は?」とワイフに聞くようになった。もう心が20代に戻って私のことを考えていたようだ。ワイフが女中さんに見えたのだろう。妹が毎月4回ぐらい介護に来たが、母の話題が幼少期の私のことに傾斜していて、面白くなかったらしい。
 伊達政宗の母が政宗を殺そうとしたというのは後生の作り話だという説を立派な歴史学者が書いているのを見て、そうかもしれないなと思った。母は自分が産んだ息子に心が向かう生き物だ。

 葬儀は父のときから30年ぶりで、とても気疲れした。そもそも30年前は母がいろいろやっていた。私は会葬御礼挨拶の言葉を考えながら「♪もしゅもしゅ亀よ亀さんよ♪」と口ずさんでおれば良かった。
 母の残した預貯金は次だった。
   三菱UFJ信託銀行──x,000,000円(母が生前妹に渡すように言っていた)
   その他────────5,200,000円
 母の逝去に関連して出費がかさんだ。主なものは次の通り。将来親の葬儀がある読者の参考になればと思って並べてみる。(喪主と非喪主の兄弟とは大変さが全く違う!)
家の改修・整備(注1) 3,100千円  (注1)近所の家で、過剰なバリアフリーを戻すとか、故人の部屋を他に転用するとか、介護中に家屋補修を我慢していたとかで、葬儀の後すぐに家を改修した事例がとても目につく。
お寺へ(お布施、大姉号) 550千円 
香典収入(会社関係には一切連絡せず) (860千円)
葬儀社へ(注2) 1,500千円  (注2)葬儀社への支払いは、母が会員になって入金していたし、会葬者の数が少なくて即日返しの品代が200千円と少額なので1,500千円で済んだ。
即日返し以外の香典返し(注3) 400千円 
社会保険からのお見舞い (50千円)
石材屋へ(戒名彫り他)(注4) 80千円  (注3)即日返しに200千円使っているので、香典の7割ほどお返ししたことになる。
司法書士へ(諸登記) 250千円 
四十九日費用(収入を差し引き後) 80千円  (注4)墓石の戒名入れは2万円ぐらいと想像していたら5万円もした。他に、墓の花入れの穴の拡大と消費税。

位牌他仏具 30千円 
ヘルパーさん(2名)へ謝礼 40千円 
合計 5,120千円 
 上記の5,200,000円がありがたかった。丁度消えた。家の改修・整備にかかった3,100,000円は父の負の遺産(父のビジネスの後始末)で、本来母が自分の財布でやっておくべきものだった。
 母は5,200,000円x,000,000円を残したわけで、30年も前に夫に先立たれた90代の一般庶民としてはよく残してあったと言えるが、母から月々の生活費やテレビ、エアコンなどのお金を貰っていないから、受給年金が貯まる一方で、3,000,000円ぐらいは本来私のものと考えたい。
 上記の支出は他界の日からさほど日を経ずに出費しなければならないものばかりで、母の長期預金を普通預金に預け替えしておいた結果、すぐにATMにて現金が引き出せたことは助かった。
 相続分与は、母名義の預金等を私の口座に移しておいたから、妹が後片付けに来た時にx,000,000円を小切手で手渡すことができた。
(1) 早めに渡したかった。
(2) 妹がもし相続分与のことを旦那に知られたくないと思うなら、そのように図りたい。
  亭主がいない場で、小切手にて渡したい。
  妹が亭主に教えるのは本人の自由だ。(どうしたかは聞いていない)
「相続財産に(法定相続人の1人が)勝手に手を出すのは良くない」と司法書士が諭したが、不動産の分配がないなら、正式な遺産分割の処理ではなく、この2点のやり方にすることが望ましい。
 母の死後の預金等の移動が現実にはとても難しいから、(ATMを活用し)母名義の預金等を私の口座に移したので(ATMで50万円ずつ何度も下ろした!)、四十九日の法要の前に手渡せた。
 お寺への支払いは55万円だが(曹洞宗で片鉢)、知人に聞くと「安い!」ということだった。
 この記述のためネットで調べた。その結果長年私が使っていた言葉の誤りを発見した。
  A.曹洞宗はそうどうしゅうではなく、そうとうしゅう。
  B.りょうはちのはちは八ではなく鉢、両鉢は双鉢(もろはち)が正しい言葉。
 更にお布施の額についても調べた。
  ご住職の言われた内訳は、片鉢25万円、大姉戒名料30万円
 ネットで調べると 大姉戒名料は50万円が相場のようで、片鉢とともに相場よりもかなり低く済んだようだ。母が30年前檀家になるにあたって百万円のお布施をしたからかも知れない。
 不動産諸登記の費用が存外かかった。小規模の住宅用土地と家屋(母の持ち分有り)に関する相続登記で、本来ならもっと少額で済んだはずだが、次のことが必要だったため費用がかさんだ。
(a) 登記で母の名前に奇妙な異字体が使われていて、修正せねばならなかった。
(b) 20年前に返済し終えた会社の住宅融資に関する担保の登記が残っていて、抵当権抹消が必要になった。
 そもそも父が亡くなった時、土地は私の名義にすれば良かった。私は妙に真面目なところがあって、父の死後あまり時を経ずして万一私が死んだ時、母の地位がとても弱くなることを恐れて、土地は母の相続とした。不動産や相続問題に詳しい岳父が「どうしてそうしたのかねえ?」と妻に言ったぐらいだ。
 結局しなくても良い登記費用の支払いをしたことになる。
 頼んだ司法書士さんが人物的に優れていて、仕事がとても着実・親切で、感心した。例えば、土地の路線価評価額まで調べて、相続税が非課税扱いとなることまで教えてくれた。
 母の名前の異字体による登記を見つけ、これを訂正し、抵当権については、平成14年に繰上退職した会社の東京の法務部に自ら電話し、更に、名古屋支店の総務部と交渉して抵当権抹消のための書類を整えてくれた。この2件及び相続登記と路線価調べについて私は何も動く必要がなかった。
 30年前父の死後司法書士に登記関係を頼むと、いろいろ書類の取り寄せを求められ、知多市の市役所まで除籍簿を取りに行くようなこともあったから、今回すべて司法書士がやってくれたことには驚いた。しかも、事務所に足を運んだのは最初の依頼の時だけで、その後はすべて電話か私の自宅に来ていただくことで済んだ。
 専門知識がしっかりして仕事ぶりにとても感心したので、22万円の請求だったけれど、25万円受け取っていただいた。
 遺品整理は四十九日の法要が済んでから始めたがとにかく大変だった。
 母は持ち物が多い上に、父の遺品までたくさん残したままだった。だから規定のゴミ袋大(45リットル)換算で40ヶほど処分した。
 父も母も多趣味で、水彩画、盆石、詩吟、絵皿、掛け軸、アルバム、本、歌謡曲、衣服、切手、コイン、園芸用品、ミシン、電気製品(布団乾燥機、炊飯器、除湿器、加湿器、暖房機他)、父の事業関係などのものがいっぱいあった。粗大ゴミでは、衝立、下駄箱、テーブル、剪定鋏、絨毯、長持、タンス、机などあって、高価なものは殆どなくても、とにかくものだらけ。断捨離の徹底路線でやり、40袋も処分し、粗大ゴミの手配を3回すると、家の中が実にすっきりした。
 この中で厄介だったのがアルバムだ。20冊以上あった。
 厄介なのは、(1) 捨てて良いのか悩ましい。(2) 重いし、角張ってゴミ袋が破れやすい。
 断固決断し、私が生まれた頃のもの1冊を残して全部捨てた。親類の結婚式の立派な写真も全部捨てた。とにかく私は父方のイトコが14人もいる。
 ゴミ袋にアルバムを衣料品などと一緒に詰め、45リットルの袋に4冊入れるのを限度にした。
 父の若い頃のアルバムは処分を迷った。でも、私は小学5年の時先祖のことをいろいろ調べたくって、祖母にいろいろ尋ね、お寺に行って過去帳まで見せて貰ったが、私の孫にそんなことをする気配はない。だから、捨てた。
 親のアルバムをごっそり処分したから、私も自分のアルバムをしっかり処分した。子供から見れば親のアルバムなんて必要ではない。
 築30年超で、父と母が使っていた部屋を初めてまともに掃除でき、天袋のネズミのミイラ2体まで捨てられた。
 天袋はほぼ空にした。天袋にしまうとどこの家でも殆ど使わないと思う。
 ならば、天袋は空にしておけば良い。
 家を建てる時は天袋なんて作らないほうが良い。ゴミと埃がたまるだけだ。
 衣服と宝飾品で値打ちのものは、ワイフ、妹、弟の嫁、仲人子の4人の婆さんが引き取った。母は松坂屋で買い物をしていて、超高級そうな装いのご婦人に「素敵なお召し物ですわねえ」と声をかけられた経験が何度もあった。美人で口がうまいし、反物の訪問販売をしていたから、高級品を安く入手するのが上手で、服飾に関する美的センスが良いから、やや高級品を立派な高級品に見せかけて着こなすのが上手かった。だから、この分配と不用品の整理の作業には活気があった。
 妻が身障者で、普通の人のようには活躍できないから、遺品整理と掃除の戦力は(妹6、私3、妻1)の比率で、妹の大奮闘には実に助かった。父が死んだ時に母がお金を渡しているから、妹は──百万円ぐらいもらえたら良いな──と思っていたようで、遺品片付けに遠くから何度も足を運んでくれた。x,000,000円を渡したのが奏功した。
 いろいろ思いの外お金がかかるから、その通りにすべきかとも思ったけれど、遺言通りにして良かった。
 私には押入や天袋からいろんな重いものを取り出し、掃除機を手にして吸い口を天袋に突っ込むという作業が肉体的にも精神的にも実に耐えがたい。口と電卓とペンとキーボードだけで仕事をしてきた男だから、地獄の懲罰作業に等しい。それに、呼吸器系が過敏で掃除機の排気を吸うとおかしくなるので、若い頃から掃除機が近づくと逃げていた。掃除機を使う仕事を全部妹がやってくれて助かった。
 品物の要不要の判定と不要品のゴミ処理分別・切断・ゴミ袋入れ、段ボール紙縛りを専ら担当した。衣類用の箱だけでもあきれるほどの量があり、段ボール類の資源ゴミでは相当な量を廃棄した。
 なお、前年は2階の私たち夫婦の居住空間の天袋、押入、物置部屋を整理した。掃除機の使用は息子夫婦に任せた。規定のゴミ袋大(45リットル)換算で15ヶほど処分できた。天袋は空にした。
 天袋、押入、物置部屋は断捨離を実行すると爽快になる。昭和57年に名古屋に引っ越ししてきて、その時に新築家屋の天袋にしまい込んだものをすべて処分した。他には衣類とアルバムをたくさん捨てた。現役の時の衣類は不要になった。ワイシャツなんてクリーニング代がいるから馬鹿馬鹿しい。
 その翌年、今度は1階の天袋、押入、物置部屋と格闘し、没後30年の父のふんどしを捨てることになるとは全く予想外だった。
 母には我が侭、せっかち、いっこくなところがあった(私と全く同じだが、遥かに重度で、また、介護する人に対して思いやりが欠けていた)。亭主(私の父)や亭主の父母、自分の父母を介護した経験がなかった。亭主はガンで入院してわずか3ヶ月で死去した。父は分家で母はそこに嫁に出た立場、介護はそれぞれ本家の跡取り夫婦がしていて、母は見舞いに行く程度。
 要介護度の高い人を介護した経験がないし、生来の性格から、介護人(妻、私、妹、ヘルパーさん、デイサービスの担当者)がカリカリするような発言をよくした。そして、重度の介護の期間が6年と長かった。
 それでも、妻は長年とてもよく介護に努めてくれた。不自由な体だから私が助けねばならないことは多いが、それにしても本当に苦労をかけた。
 心配は、息子の嫁が妻をしっかり介護してくれるかどうかだ。

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(千戸拾倍 著)