私の10代の性

女の不思議さ1
 私は昭和58年に36歳でソープランドに通うようになってからは、それまでの性経験の乏しさを挽回するように金津園で遊びまくった。女の快感反応に激しく好奇心を燃やし、女がエクスタシーに到達する時に滑らかな躯が微かにわななくのを何よりも愉しみにした。
 家庭と仕事は大切にしていても、それとこの趣味とは両立して別のものだと思い、うち解けあえる魅力的な女を発掘することに情熱のすべてを注いだ。
 ソープの女と奔放に絡み合い、実現できた快楽の大きさを想うと、少年の頃の性への憧れが懐かしい。未知なるものにひたすら好奇心を拡大させていた息苦しさが忘れられない想い出だ。
 私は、女の裸と性的昂揚に人一倍執着する心がどこから来ているのかと考えると、どうも昭和35年中学2年の時の2つの性的な体験が動機付けしているような気がした。坊主刈りの純情な年頃に、胸にいつまでも波紋が残る衝撃の経験をしたのだ。
 夏休みのある日、私は加藤という友人と、千原という美少女の家に遊びに行った。
 3人は小学6年の時の同級生でも私と加藤は千原と特に親しくしていたわけではない。しかも、千原は私立の女子中学、私は私立の男子だけの中学、加藤は公立の共学の中学に進学して、学校がばらばらだった。
 私が小学校を出てから千原に会ったのはそれまでクラス会で1度顔を合わせただけだ。加藤にしても千原と付き合っていたのではない。それなのに、加藤がどういうわけか千原の承諾を取り付け、私を誘って千原の家に行くことになった。
 私は子供ながら千原に淡い恋心のような気持ちを抱いており、それを知っている加藤が親切心で手配をしたようだった。
 名古屋東部の閑静な住宅街に千原の家があった。洋風の応接間に通され、レースの覆いが掛けられたピアノがあるから、私も加藤も千原家が存外に裕福そうなことに驚いた。
 私は、加藤も千原に気があって、私をだしにして千原にモーションをかけたのではないかと疑った。
 猜疑心を胸にして観察したけれど、共学で女と話す機会が多い加藤が、別学で女と会話することすら全くない、女に話しかける勇気もない私を気の毒がって、道でばったり千原に出会ったときに、「××と一緒に遊びに行ってもいいか」と声をかけたことは、加藤と千原の会話から確かめられた。
 3人で互いの近況を語り合って、私は、加藤が何のてらいもなく女と全く普段通りに会話しているのを羨ましく思った。男だけの学校で過ごしていたことが妙に性的な意識だけを突出させて、異性相手の話の仕方が判らなくなっていた。
 喋っていることは軽い内容だけれど、何故か話の中に飛び込みにくい。加藤だけが流暢に喋っている。千原の視線が私に向かないからやきもきした。ジョークも言えない私が間抜けのように思えた。
(加藤がしているように喋っておればいいんだ)
 そう開き直ると、私は口数も増え、会話に参加しているような気分になった。部屋の天井の隅に雨漏りの大きな染みがあったことから、前年の伊勢湾台風の凄まじい暴風雨の想い出を語り合っていた。
 その話の輪に千原の中学1年の妹が加わった。
 初めて顔を見たその妹は、物静かな感じの姉よりもずーっと外向的な性格で、いつの間にか話の主導権まで握っていた。背丈も姉よりあるようで、派手に笑い声を上げて、1学年上の、姉の同級生の男と喋っているような物怖じした様子が全くなかった。
 クラス1の美少女だった姉よりも、妹の方が更に器量よしで、胸のふくらみもはっきりして、大人っぽい上に、表情があでやかだ。スカートも姉より短めにして、生意気に時々脚を組んだりしていた。
 活発に喋る妹の視線が突き刺すようで、いつもは駄洒落を連発する加藤ですらまともなことしか言わず、圧倒されているように見えた。
(すごいぞ。これは芸能界入りができる顔だ!)と私は見とれた。
 言葉数が多く挑発的な視線を投げる妹と比べると、「うん」とか「そう」とかの相づちが多くて、壁に向かって笑ってばかりいる姉がくだらない女に見えてしまう。途中で母親が紅茶とケーキを運んできて、しばらく一緒にいたが、その時ほど邪魔だと思ったことはなかった。
 私は股ぐらが妙にべとべとしだしたことに気がついた。前年に自慰を覚えたから、下半身の生理現象は充分知覚することができた。
(夢精したのかな。ちがうようだな。あの透明なヌルヌルがいっぱい出ているのかなぁ。一体どういうことなんだろう。別に助平な話をしているわけではないのにこんなに出しちゃって、ズボンにまで染み出して、こいつらに気がつかれたら、格好わるいぜ)
 私は穿いていた東海中学の制服のズボンがグレーの木綿地で、濡れると色変わりが目立つから、摘んで引っ張って、ペニスにへばりついたパンツとズボンを離し、できるだけ股を閉じているように気をつけた。
 妹の方がたわいもない遊びを提案した。姉と妹で部屋のどこかに百円玉を1枚ずつ隠し、それを男2人で20分以内に探し当てるというものだ。
 部屋は四畳半の応接間で、それほどごちゃごちゃと家具や小物類がなかったから、さほど苦労することなく2枚の百円玉は見つかった。
 ところが、探索中に部屋の隅に立って眺めていた妹が冷やかして言った言葉が、私には脳内に反響する一大刺激だった。
「ねえ、私たち、スカートの中に隠しているかもしれないわよ。……そうだったらどうするーぅ?」
 これに反撃の言葉を返し女を悦ばせるような度胸も経験も、私と加藤には全くなかった。
 そんな生真面目さをからかいたいのか、妹はゲームの後百円玉を手遊びしながらとどめの挑発をした。
「女の人は、これぐらいのものなら隠せるところがあるのよ。男の人にはできないけど、ふふっ」
 それから後、私は、その部屋でどんなことをしたのか全く憶えていない。家に帰ってからズボンを脱いでパンツを確かめ、そのままオナニーをしたことは、この文章を書いた50近い歳でも記憶していた。パンツの前半分が失禁したようにずぶぬれ状態で、青くさい臭いがした。


女の不思議さ2
 数日後、私は前からの予定で母の実家に出かけた。
 毎年夏休みは、従兄弟とザリガニを取って遊んだり、祖母や叔母から小遣いを貰うのが楽しみで、名鉄電車に乗って田舎へ行くのが恒例だった。
 一宮から分かれた支線の無人駅で降りて、中学2年の足で祖母の家まで歩いて50分ぐらいの距離だった。
 木曽川から直線距離で4キロも離れていない濃尾平野の中心部で、植木の苗木の農園と、砂糖黍やとうもろこしなどの畑の間に民家が点在し、遠目にのこぎり屋根の紡績工場がいくつか見えた。平坦な風景の中にところどころ目立つ立木には、どれも伊勢湾台風の爪痕が明瞭に残っていた。
 名古屋を離れれば舗装道路がまだ僅かしかない頃、土埃で靴が白くなる田舎道を、私は千原の妹の言葉を思い出し、ズボンの前をふくらませて1人で歩いていた。
(女が百円玉を隠せるところというのは、髪の毛の中なのか? 中学1年生が、本当に女の穴のことを言ったのだろうか、いやいや、あいつはその前に『スカートの中』と言った。それに、あいつはからかうような、照れくさいような、妙な顔をして『女の人は、これぐらいのものなら……』と言った)
 私はパンツがずぶぬれになったことを振り返り、自分の生理現象にあきれていた。
 同年代の女と3時間も喋ったのが楽しかったには違いないが、それだけのことで肉体に異様な反応が生じるのだから、性欲だとか官能だとか欲情だとかの、書物やピンク映画の宣伝文句で見る、扇情的な用語の意味をつくづく納得する気分だった。
 勃起させたままでは歩きにくいから、私は横向きにパンツを突き上げているペニスを腹の方へ向け垂直にして、刺激が響かないようにした。殿様バッタかクワガタでもいないかと気をそらすようにしても、思考はすぐに百円玉と千原の妹の方に戻ってしまう。
(百円玉が処女の穴に入るんだろうか。女学生はキュウリを突っ込んで、独りで愉しむというから、それなら隠せるのかもしれない。でも、処女がキュウリを使うなんて本当にできるのだろうか。いやいや、あいつは大人の女を前提にして言ったと思うべきか)
 私は千原の妹の思わせぶりなセリフが頭に反響して、あまりにズボンが前方に張っているので、老人のようにゆっくり歩いていた。それでも、ますますペニスの先の感覚が強くなってきたので困り果てた。
 気を静めようとして立ち止まり、漱石の草枕の冒頭の一節を思い出してみるのがよかろうと考えた。しばらく記憶をたぐっていると、突然大粒の天気雨が降り出した。
 丁度道沿いに大きな家があり、庇が長く張り出していたので、雨宿りに軒下を借りることにした。
 夏の日差しの中を歩いていたから、ガラス戸が開け放たれていても、建物の中は暗くてどうなっているか判らない。眼がなれると、若い女が大勢いて規則的な機械の音もして、どうも紡績工場のようだ。木造の、天井の高い古ぼけた建物だった。
 何気なく覗いているとサイレンが鳴り、板の間をぎしぎしと鳴らしながら若い女が4人ばかり出てきた。私は慌ててズボンの突っ張りが収まりかけていることを確認した。
 私が雨宿りの了解を求めると、女達が話しかけてきた。
 多分中学を出てすぐに就職して皆17、8ぐらいかと私は想像した。
「この雨なら、すぐにやむわよ」
「雨がかかるからもっとこっちへいらっしゃいよ」
「坊や可愛いわねえ。いい服、着ているわねえ」
「どこからきたの」
「どこへ行くの」
「坊や、暑かったでしょう。にわか雨が丁度いいわねえ」
「坊や、名古屋の子だったら、もう女の子と喫茶店に行くことなんかあるんでしょう?」
「ねえ、ガールフレンドいるの?」
「私達の中で誰が一番綺麗に見える?」
 立て続けに声がかかり、返事をするのに忙しい。年上でも、若い女に声をかけられるのは初めてだ。
 テレビもあまり普及していない当時は、名古屋という都会とその周辺の市町村とでは女の服装や髪型にかなりの落差があった。皆野暮ったい髪型に、白のシャツ、黒っぽいスカートの田舎臭い身なりで、ロングヘアーもポニーテールも三つ編みもない。口紅もつけていない。揃って短めのおかっぱ頭でいかにも健康そうに見えた。
 九州からの集団就職かな?と思って聞いていると、言葉は尾張弁のようだ。
 工場といっても民家風の建物で、女達が立っている部屋は床の位置がやけに高かった。雨戸の敷居に手をついて話の相手をしていると、女達は立ったまま話しかけるから、長いスカートで隠れている膝の辺りが私の胸の高さだった。
 4人の姉さんに何やかやと声をかけられ、いつまでも相手は突っ立ったままで、坊や扱いをされるから、失敬な連中だ、と思っても、異性と言葉を交わすのはやはり楽しい。
 目の前に3人の女の腰が迫って、学生帽を被った顔を覗き込まれたりして、私は返事をしながら、頬を染め、次第にどぎまぎの度を強めた。恥ずかしくなって、雨を確かめる格好で顔を背けた。
 突然肩の辺りを前に引っ張られ、布切れのようなものが顔にかかり、光がなくなった。驚いて首を正面に戻すと、温かい柔らかそうなものが顔に当たった。
 反射的に首を引っ込め後ずさりして、間違いなく私の頭が、正面の女のスカートの中にすっぽりと入ったのだと判った。
 顔を引いた時に光が入って、両膝から内腿、下穿きの逆三角形のシルエットが残像に残っている。
「××ちゃん、おまんφを見せてあげなさいよ」
「あんたがすればぁ」
 飛ぶように駆け出した私の耳に、軒下から飛び出す直前に聞いた声とそれに続く下品な笑い声が反響した。草いきれの臭いが充満する嗅覚の奥に、何だか嗅いだことのない、温かくて生々しい匂いの記憶があるように思った。
 早足で歩き、道が曲がって、逃げ出した建物が見えなくなってから、歩みを緩めた。股ぐらが妙だったので、ズボンのMボタンを外してパンツとペニスを探った。何やらヌラヌラして、指を鼻に近づけると、また青くさい臭いがした。

 私は成人しても女に対しては内気な態度で、さしたる性的な経験をすることがなかった。中学2年の時の、極めて突拍子もない2つの体験だけが記憶に残った。その後千原姉妹と会うことは全くなく、また、祖母の家に行くことがあっても、あの雨宿りした紡績工場の前は避けて通っていたのだが。
 私は大人になって歳の割に女性経験が少ないことが腹立たしくなった時、ソープランド遊びを思い立った。その時私は、これこそ肉体が現役である限り、生涯愉しめる娯楽かもしれない、ゴルフや麻雀や旅行よりもよっぽどましだ、と眼が覚める想いがした。
 初めて会った女といきなり性的な体験を味わうことができる、それは、あの中学2年の時の衝撃的なほど淫らな経験、反面、女はこんなことをするのかという一種の失望感、だけど何故か楽してしょうがない、日常生活から突出して妖しく具現化した蠱惑的なもの、あの時の体験と同じだ、と思った。


性に悶えていた頃
 東海中学に通っていた頃、学校の近くに銀映というストリップ劇場があった。仲間のませた連中がにやにやと女が丸裸になるだけでなく子供の生まれるところも見せてしまうと話すのをどきどきしながら聞いた。
 若い女の水着姿の写真を見ただけで充分亢奮し、床に新聞紙を拡げ、そこで仁王立ちで手淫してぶっ飛ばす距離を確かめていたのに、覆い物なしの本物が見えるならどんなにか亢奮できるだろうと思っていた。
 ある時、その劇場に地学の先生が入るのを見た奴がいた。その先生が生徒にも人気があり、中学の教諭ではあるが学会で発表などもする、少しは名前の知られた人だけに、女の裸を見るのはあの先生にとっても岩石や地層や化石を見るのと同じに面白いことなんだと愉快になった。それで、自分も何とかストリップが見たいと思っていた。
 社会科の先生が、日本国憲法の理念や衆議院と参議院の違いなどについて抑揚のない声で説明し、普段は全く面白みのない授業をする教頭だけれども、突然授業とは関係のないことを言い出したことがあった。
「女は船なんだよ。船そのものだ。皆、船の形を考えてごらん」と唐突に言ってニヤリとした。
 2呼吸置いて、「ボートの形だよ」と言い、意味深長な笑みを浮かべた。そして、真顔に戻って「SHIPは女性名詞だ。だからボートは女だ」と続けた。
 ポルノチックな漫画やパソコンゲームなどは出まわっていない、昭和35年の中学2年だから、その先生が何を言っているのか理解できたのは、男だけの63人の生徒の中で私を含めて10人くらいしかいなかった。
 当時私は実物は勿論、写真も見たことがなかった。女陰の形を活字で理解しただけで、写真でもいいから女性器が見たかった。ちんちんを挿入する交接器官の具体的な色と形を知りたかった。
 それから1年ぐらいして、不良ぽい同級生から初めて男女の交接の写真を見せられた時は、そんな宝物を持っているそいつが本当に羨ましかった。

 私はとにかく中学生の頃から性的好奇心が人一倍あった。男女共学ではなくて男だけの中学校と高校に通ったから、歳の割には下半身のことについて芸術的なまでに妄想をふくらませていた。
 高校1年生の頃勉強中に決まって頭に浮かぶ妄想は、網タイツの女にフェラチオさせているシーンだった。
 その女は面長で眼がきりりとしていて、とても背が高い。ストレートの黒髪が艶々していて、重みがある。ルージュは真っ赤で、睫毛がはねている。
 黒いレザーのチョッキを着て、胸元が大きく空いているから、豊かな乳房が殆ど露出している。黒いロングブーツを履き、ヒールは高く、黒の手袋が肘までかかっている。脚の長さが素晴らしい。網タイツの股ぐらがくり抜いたように開いていて、黒々とした恥毛がぼうぼうとしている。
 女と2人だけの部屋には、不思議なことに魚を焼く網をずーっと大きくした形状の物が水平に設置され、私が床に寝るとすぐ上に、その鉄製の格子網がある。
 私が鉄の格子の間からペニスを突き出すと、女が格子網の上に腹這いになってペニスをしゃぶる。「やめろ」と言わない限りいつまでも舐めている。
「揉め」と言うと、手袋を外しながら投げる視線が妖艶だ。ペニスに唾を垂らす仕草も、ネットリと穂先をさする手つきもいやらしい。しかも、左手で金的をたくし上げている。
「入れろ」と言うと、女が股ぐらの中心をあてがう。白い尻に鉄格子が食い込んでいる。格子の間10センチ四方ぐらいの隙間から女の一番不思議なところが突き出ている。
 私はペニスの快感だけでなく、身体を反らして、長々と腰を浮かせる苦痛までも愉しんだ。
 フェラチオしている動画どころか写真すら見たことがなかった。フェラチオされる感触も知らないのに、そんなことを想像しながら、いつしかペニスをこすっていた。
 中年になって小説を書き出してからその妄想を思い出すと、一体どこにネタがあってそんな明確な妄想をしたのか不思議でならなかった。口紅が濃いままでフェラチオしたら、珍妙な顔になるのに、その歳ではそんなことには気づかない。
 まだ見たことのない女陰にはもやがかかっていて、それ以外の箇所が映画のように鮮明な画像だった。
 とにかく私は性的好奇心が強い割には、現実の性的体験が僅かだった。
 中学3年から高校1年の頃のセクシャルな記憶は、同級生にファックのモノクロ写真を見せられたこと、満員バスの中で男の痴漢に遭って、股ぐらを探られたこと、あと強く印象に残っているのは、次の3つだ。
 一つは、同級生で体操部にいる男が、「俺は身体が柔らかいし、ちんちんが長いから、自分で咥えて舐めて、発射できるんだ。口でマスをかくと、むちゃくちゃ気持ちいいぞ」と自慢したことだった。
 もう一つは、キャバレーの社長の息子の同級生が店の女にセックス指南を受けていると自慢話をしたことで、話に聞く限りではハーレム状態だった。さわらせるだけだったのか、筆おろしまでしているのかは、はっきり言わなかった。それがとてももどかしかった。
 三つ目は、クラスで一番ハンサムな男に誘われて学校の女事務員の自宅に遊びに行ったことだった。
 これは世間話をしていただけで性的なことは何もなかったし、出しに使われただけだから、どんな話をしたのかは全く憶えていない。でも、20歳前後の女の部屋で長々と会話したのがどうにも性的刺激になった。
 こんな程度のことが後々まで記憶に残る性的な経験で、成人してもまるで性的体験が乏しかった。また、狂おしいほどセックスに願望があってもからっきし臆病で、赤線のようなところにも全く縁がなかった。


性風俗遊びの揺籃期
 高校生になると、坊主頭に髪を伸ばすことを許された。同級生の中で真っ先に髪を伸ばして、1人でストリップ劇場に行った勇気が鮮やかに記憶に残っている。
 私は、妖しい雰囲気の中で、ピンクのライトに照らされ、音楽に合わせて官能的に踊る素裸の女体の魅力に取りつかれてしまった。
 その頃は、踊り子が陰裂を指で開いて中まで見せる過激なオープンショーはなかった。
 当時私はアルトサックス、テナーサックス、トランペットのブルース・ジャズ系の曲が好きだった。セントルイスブルース、グリスビーのブルース、褐色のブルース、ハーレムノックターン、暗い港のブルース、青い灯影のブルース、黒い傷痕のブルース、黒いオルフェのテーマなどの曲に乗って、女体がくねる艶めかしい踊りが続くと本当にわくわくした。
 女の裸が綺麗なこともさることながら、同時に、洋舞や日舞などの出来が良くて、秘所の見せ方にエロチックなところとかショーマンシップが感じられると、感動して見ていた。
 10代20代の頃は随分とストリップ劇場に通った。東海高校の近くの銀映によく入ったが、鶴舞劇場にも行っていた。更に、北海道から大阪方面まで各地の沢山の劇場に入った。
 一時期愛知県警の規制がやたらと厳しくなって、春毛をちらっとだけ見せる程度の穏やかなものになった。その時は、わざわざ名古屋から大阪の天満橋まで開通したばかりの新幹線で見に行った。
 様々な形の女体と女陰と毛相を見てきて、女体鑑賞の数の多いことには自信があった。
 当時私は、いつあの肉壷の中に発射できるのだろうかと悶々としていた。
 大学生の頃は、大学の図書館で医学関係の本を開いて、カンジタやコンジローマや梅毒やヘルペスや淋病を患った女陰のカラー写真を見た。気味の悪い症例写真に亢奮しながらも、商売女と関係するのは絶対にしてはならないと思っていた。
 今は誰でもインターネットで健康なおまんφの写真を自由に見られるから幸せだ。
 東京オリンピックの頃の名古屋では、ストリップショーは恥毛が見えるか、閉じた陰裂が遠くから覗ける程度のおとなしいものが多かったが、昭和40年代に入ると、鼻の先での逆さVの字のご開帳や花電車やオナニーショーが当たり前になった。
 どんな時も開演前に入って、客席の最前列に座り、1回のステージが終わっても客の入替えがないので、2回分のステージを5時間くらいかけて見ていた。
 一番近いところでオナニーショーを見ていたから、童貞であっても、クリトリスをそよそよと撫でるようにこねるやり方は頭にたたき込んだ。いつも踊り子の眼を見つめて、一生懸命に拍手をした。
 踊り子も「あらっ、僕、まだいたの。一生懸命応援してくれるから、僕だけに見せてあげる」などと言って、私にだけ特別に長時間、ラビアの内側をさらけ出した。
 私は、眼前に露わになった尿道口や膣口の形と2つの孔の間隔や、アナルの形を一心不乱に観察して、股間に振りかけた香水の匂いを愉しんだ。そして、女もアナルのまわりに毛が生えているのを知って面白がった。
 その複雑で摩訶不思議な形のものを見て感動する私の演技が上手だったから、姐さん達もこれにのって、初に振る舞う私に付き合い続け、他の客からブーイングが起きたこともしばしばあった。
 当時私は踊り子をのせるのが上手だった。
 一度、結構妖艶な女が客に百円玉を入れさせる出し物があって、私も小銭入れから取り出してやってみたが、それが膣の中に指を入れた初体験だった。
 中が温かったのと、結局25枚以上は入れてしまったのには驚いた。ラーメンを食べれば、まだ百円程度の頃だった。ワンステージでラーメン20数杯分の臨時所得が膣に入った。
 大学生の時見たストリッパーで、30年経っても忘れられないのが1人いた。
 それは、頬の肉厚が薄い、痩せた女で、洋舞も日舞も抜群に上手に踊った。しなをつくって客席に視線を送るのが何とも妖艶だった。
 美人で踊りが本格的だから、トリの前ぐらいに出てきて、白黒ショーとか、放尿ショーとか、ポラロイドショー、オナニーショーの類の特別なことはせず、際立った踊りだけでショー構成をしていた。
 ストリップのテクニックは何をしても上手かった。艶やかな舞踊とともに放散するエロチシズムと色気が見事で、サービス精神旺盛にご開帳するから、私は身を乗り出して見ていた。
 しゃがんで膝を開くと、土手のふくらみがまるでなくて、指を使わなくてもやせた花弁がパカッと開き、短めの割れ目の上にクリトリスがぴょっこり飛び出した。
 女が腰を突き出し、更に指で開いた。扉が左右対称で形良く、谷間はピンク色が鮮やかだった。
 息を凝らして覗くと、中の膣口が全くまん丸の形をしていて、その円の直径の位置に、まさか愛液でもあるまいに膣の粘液が一筋つららのように細い糸を引いて渡っていたから、私は卒倒する想いで熟視した。
 まん丸の膣口の縁は細かくギザギザが刻まれたようになって、水生動物の口のようなピンク色の丸みと、ぬめりを帯びた光沢がこの世に2つとない秘宝を思わせた。
 直径1センチもない真円に吊り橋のように渡った粘液の直線は、どうしてネバネバが出ているのだろうか、こんな猥褻な状態になっているのを女は知っているのだろうか、などと様々な想いを抱かせ、一生忘れられないストリップショーになった。
 その後ストリップはエログロ路線に進展し、それは私の好みの方向だったが、SMショー、放尿ショー、白黒ショーや、犬を相手の獣姦ショーなどを楽しんだ。
 初めて見た白黒ショーは、男の逸物がまさしくビールの中瓶大で私は度肝を抜かれた。病的なほどに華奢な躯の年増女が、それを可能な形にさせるため尺八を懸命にしていた。その開けた口が途轍もなく大きかったから、それにもすっかり仰天した。
 そのデカマラがズブスブと陰裂に潜り込むさまは、まるで拷問のように思えた。
 当時見た女体を思い出すと、秘所の形が実に様々だった。超肥大ラビア、左右の形状が全く違うラビア、超色黒ラビア、極度の捩れラビアなどが出てくると、本当に嬉しかった。
 張り出しが5ミリ程度の幼稚園児ラビア、引っ張ると10センチ以上延びるラビア、超縦長陰裂、大豆大のクリトリス、膣口がぐしゃぐしゃの形のもの、ラビアの片側だけが入道雲のようにうねってせり出しているもの、処女膜の残骸が判るもの、見る度に私は眼を丸くし、至上のシンメトリーの造形美や生物界の神秘を発見したように感動していた。
 毛相も、三角形、逆三角形、四角形、円形、まばら、密生、幅広、縦長と千差万別だった。それに比べれば中年になってから見るソープ娘の毛相は、皆同じでつまらない。ハイレグ着用のために、また業務上、毛摺れしないように、毛の処理をきちんとしているから、見た目形が同じようになっている。
 春毛は処理することにより、皆似た形になるのは判る。しかし、花弁状の扉の形状に個人差が乏しいのは、昔の観察からすると不思議な気がした。皆、子供の頃の栄養が同じ様に良いからなのだろうかと思っていた。
 それにしても、私がストリップ劇場によく入っていた当時から年数が経っているとはいえ、岐阜金津園の嬢のスタイルが良いのには感心する。昭和40年代と昭和が終わる頃とを比べると、その間に見事に女の脚は伸びた。青春時代に見たストリップ嬢は、振り返るとかなり不格好な体型をしているのが多かった。

 私は30歳代半ばを過ぎてから突然ソープ通いをするようになった。生来性的好奇心が旺盛なのにそのように遅くなったのは訳がある。
 学生の頃、何が何でも童貞を捨てたいと思って、名古屋駅西のいかがわしいところへ行ったのが、そもそも不運の始まりだった。
 駅西は新幹線の玄関口として再開発されてからは街が浄化され、オフィス街の様相を示すようになったが、昭和40年の当時はみすぼらしい建物ばかり並んでいて、危険なことでは定評があった。
 夕闇に包まれたバラック建の長屋の路地裏で、遣り手婆に呼び止められ、裸電球が頭にぶつかりそうな、饐えた臭いのする部屋に入ると、痩せこけて不健康そうでも陰気な様子でも、とにかく若い女が現れた。
 ほころびとつぎはぎの目立つ座布団を2つ並べたので、ああ、これでセックスができる、と思った。
 でも、ズボンを脱いだら、入れ墨を彫ったちんぴらが上半身裸のステテコ姿で現れ、「手前、俺の女に何をするんだ!」と脅されて、有り金を取られてしまった。
 その恐怖が染みついて、社会人となってもずっと童貞だった。セックスしたいの一心でいつも悶々として、手淫ばかりしていた。
 いくらなんでも早く筆下ろしをせねば、一の位を四捨五入したら30歳になってしまうと焦り、その頃住んでいた仙台のトルコ風呂に勇気を奮って入った。
 これが、また強烈なダメージになった。
 古ぼけたタイル張りの部屋で、相方の小太りの小母さんが、私の萎縮したペニスを洗いながら罵った。
「何よ、こんなに滓を一杯溜めて。不潔ったらありゃしない。いい歳して何よ、これは!」
 胸から背中に槍が貫いたようで、もう駄目だった。作りつけの粗末なベッドに寝たら、無理やり指で落とされて、「これじゃあ、もう、できないよね」で終わった。
 私は、そんなセピア色の想い出を風化させることなく、結局童貞のまま結婚した。
 その鬱積があるから、ストリップ劇場で、ストリッパーが客と舞台の上で本番をする「生板ショー」には度胸よく参加した。
 結婚して、セックスの仕方が判って自信がついたので、もともとやりたいやりたいの一心だから、志願の客同士でじゃんけんをして、勝てば平気で舞台に上がり、パンツを脱いでコンドームをつけて、皆に尻の穴を見せながら頑張っていた。でも、その射精感は奥方とするのと比べれば全く良いものではなかった。
 この衆人の中でのしょうもない行為以外の性的娯楽は、キャバレーもトルコ風呂もその後しばらくは経験がなかった。
 30代半ばの頃、風俗週刊誌の記事を読んだのがきっかけで、私は名古屋のファッションヘルスの店に初めて入った。
 若い女と2人きりでお喋りして、試しに指技をしてみると、相方の女に褒められて、最後は巧みな指さばきで落とされた。昭和50年代のヘルスは、射精が近づくと、口を外して指マッサーになったけれど、それでも大層結構なものだと悦んだ。
 しかし、一度そういうものを経験するともう一つ上のものを望みたくなる。ピンクのライトを浴びずに、誰にも見られないでする性交を、お互いに語り合い、相手がどういう人間か判った上でする交合を、静かな部屋で、佳い女としたいと悶々としていた。
 本当に恐々入ったファッションヘルスの体験が私の全ての足枷を取り払ってくれた。
 そして、また週刊誌の記事がきっかけで、岐阜のトルコ風呂ならば希望が叶いそうだ、と思って、とうとう金津園に足を運んだ。ヘルスの店に3度、ピンクキャバレーは2度行って、手淫遊びはもういいと思ったし、名古屋駅西のトルコ風呂は全く念頭になかった。
 その初体験は『初めての金津園』に書いた。そのコンチネンタル男爵での相方の秋との会話が何とも心を和ませるものだったから、トルコ風呂はヘルスに比べて料金の差以上の愉しさがあると思った。
 90分間女を占有し、確実にセックスできるということが気に入った。トルコ風呂で働く女は、何らかの形でやくざやごろつきと関係があるに違いないと想像していたから、秋にそのような気配が見られなかったことにも私は安心した。
 私はソープ店もやくざの世界とつながっていると思っていた。コンチネンタル男爵に入ってみると、確かに待合室の客にどう見てもその関係の男だとしか思えないのがいたし、店のスタッフも、ごろつきが私に無理矢理お辞儀している感じがした。
 やっぱりソープは自分とは無縁の世界で、あんまりのめり込むものではないと思ったけれど、個室で若い女と確実に一対一でセックスできるのは天にも昇る楽しさだから、その魅力には抗しがたかった。
 それで私は金津園によく通うようになった。


おしっこ見学
 若いときにストリップの放尿ショーを鑑賞したことで、私はその異様な光景が大好きになり、金津園の女にもおしっこをするようによく頼んだ。
 排尿するところを男に見せたことのある女は殆どいなかった。それを客に求められたことのある女が滅多にいないから、ソープにやってくる男達の遊び心のないことに驚く。ただ、見せたことのある嬢はよく見せているものだ。
 たとえしたことがなくても、私が頼めば、馴染みの女は結構承諾した。だから、私は女の放尿シーンを随分見たが、もともと溜めていないので、ほとばしる量が少なくて迫力不足のことが多かった。
 小学3年生の頃、近所の6年生の女の子とお医者さんごっこをしたことがあった。
 家の近くの、丈の高い雑草が生い茂った原っぱで、草を踏み倒して2人がしゃがみ込み、その姉さんがおしっこするところを見るようにと言った。
 缶詰の空き缶に音を立てて注いでいるのを正面から覗き、その後で女に、ペニスの中程を麦藁で軽く縛って蝶結びを作られ、そのまま私もおしっこをした。
 女の放尿を眺めると、子供の頃のあの気分と全く同じ好奇心にひたれるから面白い。
 私は案内前にトイレで小用を済ませず、部屋に入ってから女に、「今からおしっこをするから、ちゃんとこの棹を右手で支えて、左手はシャワーを持っていてぇ」と頼んで、放水の間、親指と人指し指で摘ませたことも何人かあった。
 そんなことを言う客はなかなかいないし、いても相手にせず、冷たく「トイレへ行って」と言っているから皆初体験で、放尿の間少し棹がふくらむのに気がつくと、「おしっこが筒の中を通るときの感触って、こういう感じなのね」と、珍しいものを発見したような感想を言った。
 その排尿中の私の棹を指で摘んで振り回し、タイル張りの床のあちらこちらに小便を振りまいて面白がった女もいた。
 ヘルスの店で聖水プレイと称して放尿を売り物にしているところがある。でも、女が初めから納得していて、料金加算で客の誰にでも見せる放水を眺めたってちっとも愉しくない。そんなことをしたことがない女に恥ずかしいことを初めてさせるのが面白い。あくまで初体験というのが格段に値打ちがある。
 私はそう思っていた。
 私が放尿の鑑賞希望を言うと女は驚く。
 でも、私に好感を抱いておれば、甘えたそぶりの要請に最初は戸惑いの顔をしても、そのうちニソッと笑みを浮かべて、友人にも親にもボーイフレンドにも見せたことのない姿をさらけ出す。
「どこでしようか?」と問う女の顔は、どれも妖しい魅力が漂う。作業に取りかかろうとする、はにかんだ女の顔を見るのが楽しかった。
 それで、いざ放水を始めると、どの女の顔も慈愛に満ち、堂々としているのが面白かった。
 女は股間を覗き込んで、小水がラビアに遮られて乱流になっていないことを確かめると、次は、奔流の源を凝視している私の顔を見て微笑む。
 どの女も、シャワーで床の小便を流しながら、「わたし、こんなこと、貴方以外は絶対にしないわよ!」と言うのが欣快極まりなかった。
 放尿は間近で見てこそ面白い。和式便所の蹲踞の格好なら、浴槽の縁のような高いところで放つのを下から見るのがいい。浴槽の縁に浅く腰掛け、大股開脚をさせて、指で小陰唇を開いて眺めるのもいい。床に四つん這いにならせて、おしっこがどの方向へ飛ぶのか検分するのもいい。
 私はいろんなポーズの放水を鑑賞した。
 排尿時に尿道口はどれくらい広がるのか、また、どれぐらい突き出るのか、膣口は常態よりも開くのか、同時にアナルはふくれ上がるのか、飛び出す角度はどうなのか、水流の断面はどういう形なのか、しゃがんでした場合に、小陰唇に伝う尿が肛門からクリトリスまでどれぐらいの範囲を濡らすのか、見ているうちに好奇心がどんどん膨らむ。
 女の小便がどれくらいの範囲で陰部を濡らすのかを観察すると、トイレの盗撮もののビデオを見た時、若い女の排尿の後始末のいい加減さに驚く。あれだけいろんなところに小便が伝っているのに、ただ一回ペタッと紙を割れ目に押し当てるだけの始末が多い。それでは、二三回排尿すれば、すぐに恥垢が溜まるに違いない。
 女は膣口からクリトリスまで濡らすから、洗浄装置付き便座でなければ、紙を軽く当てて水気を取った後、もう一度トイレットペーパーを取って今度は強く拭うことが絶対に必要だ。そういうことをなかなか母親が教えないから、学校でしっかりと教えるべきだと思った。
 これを書いた40代の頃には私はアナル童貞だったし、浣腸についても考えたことが全くなかった。
 女に小便をさせて鑑賞するのと比べれば、女に浣腸してもウンコをさせるほうが雲泥の差で亢奮できる。
 頼んでみれば、存外協力を得られるものだ。人柄だと思う。
 おしっこ見学についていろいろ書いた。でも、これはただ見るだけなら2人見れば充分だと思う。
 おしっこショーはそれをデジカメで撮影できて意味のあるものになる。私は大勢の嬢をカメラに納めたが、その殆どについておしっこショーをカメラに納めている。逆に撮影を許されていない嬢でおしっこショーを見た件数は少ない。
 BBSでソープ嬢のおしっこを鑑賞することについてよく出てくる。素人の女の排尿シーンを盗み見るならともかくも、商売の女と合意の上でふざけあってやるならカメラぐらい使っているべきだと思うが、どうなのだろう。
 これは浣腸排便も同様だ。
 しかし、純情可憐な少年がよくここまでエロ人間になれたと感慨に浸れる。

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