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スケベエッセイ 4

 エロ人間の楽しさ

 良性記をご覧になった方は、千戸拾倍のエロいことに驚く人も多いと思います。
 どう考えても私は常人よりも助平で、エロ思考回路が発達しています。会った女に「貴方のような見事な助平は今まで会ったことがない」とよく言われますから、客観的にも卑猥な人間であることは間違いないと思います。
 どうしてそうなったかというと、まだ見ぬおまんφに強烈な好奇心を抱き続けた10代の懊悩が私の行動原理的な土台になっています。
 私が真性包茎状態から脱皮したのが小学5年生の時で、もうその頃には「嵌める」ということがおぼろげにわかっていました。
 だから、6年生の時にはもう意識過剰の状態で、女の子に話しかけられなくなっていました。
 中学1年の時に自慰を覚え、女人とおまんφへの憧れに悶々としながら自家発電ばかりしていました。いつも、ポルノ小説か水着姿の女性の写真を手にして指を動かしました。
 自慰のやり方は、包皮をゆっくり動かしてカリのエラの段差をツルンと通過する感覚で射精起動を促していたのですが、時には一本の爪楊枝を手にして快感を愉しむこともありました。
 爪楊枝を横にして剥き上げたカリの溝に当て、横方向に微妙に振動させたり、バイオリンの弓のように縦方向に動かしたりして愉しんでいました。まだカリ首の溝が超鋭敏な頃だから、爪楊枝一本の微妙な振動で感極まって発射することができました。
 赤い表面を精一杯ふくらませたカリ首に深紅の薔薇の花弁を二枚くっつけ、包皮をゆっくり戻したり伸ばしたりしたこともありました。
 包皮の前後運動に飽きると、赤い肉面に深紅の花びらをまとったペニスを見つめ、ビロードのような花びらが包皮の蹂躙によってくたびれ果て、シワになっているのを認めてから、ピッタリくっついた花びらをカリ首の柔肌からじわじわとめくり上げるのが快感でした。
 その頃は、発射した白いミルクをパイロットインクの壺に貯めていたのですが、親に見つかって捨てられてしまいました。それが、今までの50年強の人生で一番恥ずかしかった思い出です。
 高校の後半では、もう包皮を前後に動かさずに、包皮を剥き上げたままでカリ首の柔肌を手のひらで揉んだりさすったりするやり方をしていました。両手でカリ首を、錐を揉むように刺激することもありました。これは弱く包んでも強くくるんでも、軟弱な柔肌にはまるで拷問のようでした。
 亀頭攻めは本で教わったオナニーのやり方です。先走り汁や唾をたっぷり塗りつけてカリを直接刺激する癖がついたので、だんだんと摩擦に強くすることができました。
 中学から高校にかけて私は男子だけの学校に通っていて、その時の私の渾名は「エロ学者」「エロ博士」でした。
 どうしてそんな渾名かというと、普通の人間が口にしない卑猥な単語を堂々と発声することと、エロいことに関して抜群の物知りになっていたからです。物知りというのは、性科学、好色文学、阿部定等の性的事件、道鏡・ラスプーチン・ヘンリー8世などの歴史的な性関係等の領域においてでした。
 特に、女性器の医学的解析とエクスタシーやオナニーの態様については、セクシャルな用語の豊富な語彙を活用してよどみなく発言ができました。
 私は、名古屋市内の同学年で比べれば抜群の読書量があり、量的には多分トップクラスだったから、当然男女のことにも知識としては大層博識だったのです。
 で、恐ろしいほど女の人に憧れを抱きながらも、見事なまでに全く接点がありませんでした。共学の学校に通う連中が羨ましくてなりませんでした。
 大学に入ると経済学部や文学部と違って同じ学部に女子は4人しかいませんでした。そのうち二人は、旭丘と明和(共に名古屋の有名な進学校)を総代で出て、入学試験の総得点が全学部を通してトップクラスだった才媛で、立派に美人だから、私なんかは声のかけようがなかったです。
 部活の方も山岳部で女は零。金城とか椙山とか(共に名古屋のお嬢さん学校)の山岳部、ワンゲル部の連中と合コンをしても、私は、女のハートもおまんφも疼かせない小男で、いつも門前払い。
 結局、中学から大学までまるで修道院にいるような生活を送り、悶々としながらひたすらオナニーに励んでいました。
 就職することになって、働く事務所(仙台)に赴任し、私は大いに驚きました。
「そうか、会社というのは女がいるんだ!」
 皆さんはお笑いになるかもしれませんが、私は女が身近に大勢いることに殆ど仰天しました。私の右の席も左の席も後ろの席も女が座っていて、その女達とどう会話したらいいのか、対応方法がわかりません。
 普通の会話が全然できませんでした。素っ気なく事務的に喋っていても何故か頻繁にエレクトしてしまい、とにかく困りました。年増の姉さんとカボチャ姫が多かったけれど、女の化粧のにおいと尻と脹ら脛が気になってしょうがなかったです。
 仕事のやりとりの会話をしていて、女の顔が私の顔から30cmぐらいのところに近づくと、心臓がパカパカして、ズボンはいきなりテントを張って、どうにも困りました。
 20代前半までの、女に対する引っ込み思案の態度を想うと、30代の後半になってから、風俗の女とセックスしまくって、思うように淫らなことをしたのが想像できないです。
 その頃、同じ課の女はさすがに女として見ないように努力していたけれど、他部門の女はすべてシースルーの格好で歩いているように透視していました。
 何しろ当時の私はストリップ劇場に通ったのがもう相当な数に上っていたから、童貞のくせに、着衣の姿を見て女の裸体を思い描くことが容易にできました。
 で、就職して一年間はたまらずに事務所の便所に行ってオナニーで処理したことが5回ほどありました。
 その後の、20代後半からの性的な出来事は小説などに書いていますから、それらを読んでいただくことにして、ここで千戸拾倍が性的人間であるエピソードをいくつか思い出して紹介しましょう。
1.中学3年の時:母の友人で大変美人の奥さんがいて、よく我が家に遊びに来ていた。私は、その奥さんが帰った後、飲んだコーヒーカップの口紅の跡を舐めたことがあった。
2.高校3年の時:私は道徳的意識が健全にあるし、大変臆病な性格であるにもかかわらず、痴漢行為を二度もしてしまった。
3.大学受験の時:上京して早大をすべり止めに受験したが、前日は浅草のストリップ劇場に行った。
4.大学3年の時:北海道を7月と3月に2週間ずつ一人で旅したことがあった。
 7月は、旅館には一切泊まらず、専ら夜行の車中泊と山小屋の利用で、昼間は、雌阿寒岳、羅臼岳、十勝岳、利尻富士、大雪山、富良野岳、ニセコアンヌプリなどを登って、北の大地の景観を愉しんだ。夜は札幌、小樽、富良野、旭川などで夜行列車に乗り込むまでの時間の間にストリップ劇場を回った。
 3月の旅も専ら夜行の車中泊で、早春の厚岸港、網走の流氷、大雪の吹雪、氷の摩周湖、凍りつく襟裳岬などの絶景にうたれ、道路脇のそそり立った雪の壁にペニスとマンコの彫刻をこしらえ、夜は毛ガニを一人食いしてから札幌ミュージックホール、小樽ミュージックホール、旭川オデオン座、富良野座などで、白黒ショー・獣姦ショー・入れポンショー・オナニーショー・放尿ショーを愉しんだ。
5.就職後:男の部下をストリップ劇場に連れて行ったのが4名、金津園に連れて行ったのが5名いる。(遊びを紹介しただけで、料金は各自負担……当然でしょう。戦前や昭和40年代までなら管理職と部下とは天と地の所得差があったからおごることもできた)
6.就職後:女の部下二人を金津園に連れて行った。
 二人とも美人の23歳ぐらいの独身女性で、岐阜金華山の登山に誘い、下山した後金津園を見学させた。MGMからアネックスまでの通りを歩き、道一本奥に入って、いろはからヴィーナスまでの通りを進んだ。各店のボーイが驚いた顔でじろじろと見ていて、顔見知りのボーイもいたから愉快だった。
 娼窟がずらりと並び、黒服で身を固めた男が大勢いる異様な光景が眼に映っても、女二人が全く物怖じせずにキョロキョロしながら歩いていたから面白い。
 料金や店の数、営業時間などを教え、「男は誰でもこういうところで昼間からエッチをするんだよ。貴女たちが結婚して、もし万一、亭主がこういうところに来て遊んだとしても、素人の女ではないのだから、大目に見てやることも必要だと思うねえ」と言ってやったら、二人とも頷いていました。生涯最大のセクハラだった。
 私は若い頃から岐阜という町が好きで、高校・大学時代も名古屋からわざわざ岐阜まで出かけ、ストリップ劇場に行くついでによく町を散歩しました。市電が走り、街並みが古くて、何だかほのぼのとした風情を感じました。
 その頃の岐阜は明らかに人口の割に本屋の多く、しかも、私の大好きな織田信長にゆかりの地で、その二つのことで私は岐阜の町が気に入っていました。
 当時は金津園の存在については全く知りませんでした。私が金津園のことをはっきり知ったのは、転勤で久し振りに名古屋に戻った35歳になってからでした。
 セックスの金津園もいいけれど、景観と歴史の金華山も素晴らしいところです。上述の若い女二人を引き連れて登ったのは平成6年私が47歳、副部長の立場で部下二人を誘い、その時私は4回目の登山でした。
 金華山は標高 300mぐらいの山ですが、登山路によっては大変急峻で、若い女のお尻を見ながら息を切らして登れば爽快な気分になります。
 頂上の信長の居城だったお城は、長良川から岐阜の街並み、濃尾平野などが一望でき、絶景が展開します。私は大変エロい男だけれども、自然の景色も戦国の遺構も大好きです。
 小牧に拠点をおいていた信長がこの城を攻めたのですが、山頂から麓を見下ろせば、どの方向を見ても樹木が深く、あまりの急坂なことに、一体どういうふうに織田勢は進軍したのだろうかと思いを巡らします。
 私は部下の若い二人の女に、信長の美濃攻めの所要年数、戦略、美濃斉藤家三代の概略、信長の家族構成などをまるで岐阜城のガイドのように説明しながら、私の話に聞き入る瞳とすべすべの色白の頬に半分エレクトしておりました。(毎週のように金津園に行っていた頃のことです)
 当時の武将は殆どが両刀遣いでした。信長は天守の最上階で、景色を眺めながらお小姓のアナルを犯していたのでしょうか。また、最愛の女人(正妻のお濃の方ではなく、出戻り婦人の妾)とは、いつも麓の館でセックスをしていたのでしょうか、それとも、天守閣で交わっていたのでしょうか。
 天守閣でエッチをしていたなら、おまんφを洗う水は麓から運んでいたのでしょうか。
 下山してから、社会見学と称して二人のお嬢さんを金津園の街並みに案内しました。
 背の低いおっさんが、自分よりも背が高くて若い美女二人、どう見ても素人の女を引き連れて金津園の通りを端から端まで散歩しているのを見るのは、ボーイには皆初めての経験ではないかと思います。
 さすがに呼び込みの声はかかりませんでした。ぎょっとした顔で私たちを眺め、仲間同士でひそひそと話し合っているから、私は大変愉快だったです。
 それにしても、素人の若い女が金津園の街並みとずらりと並んだ客引きのボーイを堂々と見学したことが愉快でした。
 二人の女は店の数の多いことに大変驚いていました。金津園には千人の女が働いていて、月収は百万から二百万ほどあり、売れっ子さんだと昼の12時から夜の12時まで7人の客を取って、やりっぱなしのこともある、と教えてやったら、二人とも目を丸くしていました。
 愉しい想い出であります。
 私は金津園の通りのブラブラ歩きを昔はよくやっておりました。
 それは、ソープの送迎車を岐阜駅まで迎えに来させて僅かな距離を走らせることが、気恥ずかしいだけでなく、お客面してそのようなサービスを受けることが横暴に思えたから、S58年からH7年までは殆ど送迎車を使っていなかったので、結局通りを歩くことが多くなったのです。(乗るのは大雨の時ぐらい)
 だから、「車、利用されて、いいですよ」と顔なじみのボーイによく言われました。
 送迎車に乗らない代わりに、街を歩いて雰囲気を眺めて愉しんでいました。岐阜駅から予約した店まで最短距離で歩かずに、金津園の通りを長く歩くように大回りしていました。
 通りを歩く姫の顔を見て嬉しいとか、呼び込みのボーイをかわすのが面白いとか、ボーイが店を変わったのが確かめられるとか、面接に向かうために不安げに歩いている女を見るのが面白いとか、横着な客が数人のボーイに襟首を捕まれ、ボタンを飛ばして叩き出されるところを見かけてギョッとするとか、黒塗りの車で乗りつけたやくざの親分らしき男が店のボーイに最敬礼で迎えられるのを眼にするとか、いろいろ楽しみを見出していました。
 それだけよく金津の通りを歩いていたから、入ったことのない店のボーイでも私を認知していました。
 私はそういう考え方をする人間だから、さほど金津に行っていない人が、当然のように車を呼びつけるのを苦々しく思っています。
 私がH7年頃から店の車を利用するようになったのは、業界の人間に顔を見覚えられるのがよろしくないと思うようになったからです。
 私がよく歩いた通り沿いの店々のボーイにはすっかり顔を見覚えられて、行きつけの店以外のところに入ると、「今日はうちに来ていただけるのですか」と喜ばれ、これはよくないと思いました。
 私が入ったことのない店のボーイが、私の行きつけの店のボーイに「あの人はしょっちゅう来ているようだけれど、いつも誰に入っているの?」と質問するのは、大変よろしくないことです。尋ねられたボーイが女に喋り、その女が私に教えたのですが、そんなところで有名人になってもしょうがありません。
 そんなわけで徒歩をやめ、店の車を使うようになりました。
 しつこい勧誘をされて往生したとか、呼び込みのボーイが鬱陶しくてたまらないとか、よく耳にするのですが、皆何故そんなに黒服の男に困るのでしょうか。あれは無視していればいいのです。
 無視ができないほど根性のある突っ込みを受けたら、「もう、予約がしてあるよ」と言えばいいのです。「どこですか」と聞かれたら、「あっち」と答えてそのまま歩けばいい。
 とにかくまともに応対しないのがこつです。相手の熱意にほだされて何か尋ねたりしたら、もうそれはその店に入るということです。口で答えずに、手を振って拒むのが一番です。
 これを書いてから間もなくしてソープ店の呼び込みが徹底的に規制されるようになりました。風情がなくなったとも言えます。

 膣のしまり

 もうしばらく前のことですが、読者のかた(女性)から次の指摘がありました。
 良性記では「膣のしまり」についてはどうのこうの書かれていないですね。
 千戸さんは、マンコの締まり具合というものには、あまり関心がないのですか。
 たくさんの風俗嬢を相手にして、みんなそれぞれ、マンコのしまり具合は違うのですか。マンコは締まれば締まるほどよいのですか?
 でも、マンコの締まり具合より、クリトリスで上手に美しく楽しく深くイクことのほうが大事ですよね〜。
 確かに私はあれだけの量のエロ小説とエロなエッセイを書いて、しかも、短小ペニスであることに自信があるのに、膣のしまりについてあんまり書いていません。
 ということは、私自身大勢のソープ嬢と対戦してデカバギナに往生したことがあんまりないということです。自分より背の高い女性とファックをよくしていたにもかかわらずです。
 それと、私は大変エロいのですが、堅いところもありまして、女性がペニスの大小を云々するのはたいへんはしたないと思っています。それと同様に、男性が、対戦した女性のバギナの締まり具合を云々するのは大変失礼なことと思っています。
2ちゃんねる──ソープ嬢の実態・真実について あれこれ語るより
312 名前: 投稿日: 04/03/13 23:24
 近いうちにソープ行こうと思ってるんだけど
 俺ソープ行くの初めてなんだけどソープの娘って
 普通の娘より締まりが悪いイメージがあるんだけど
 実際のところどうなの?

313 名前: 投稿日: 04/03/13 23:45
 >>312
 総合的に見てしまり悪いよ。
 毎日でかいのや小さいの入れまくりだから。
 その分、意識的に締める方法を知ってる姫は多い。

314 名前: 投稿日: 04/03/13 23:51
 >>313
 情報サンクス。やっぱり締まり悪いんだ。
 まぁでもたしかに毎日色々な大きさや
 形のを入れられてるからしょうがないね。

 某巨大バカ掲示板では、ソープ嬢について「○△さんはおまんφの締まりはいいのですか」なんて質問がよく出ています。いかにも人間がとろそうなクソ餓鬼です。女性はねえ、気持ちがのればガーッと包み込むのです。
 粗チンの持ち主の私が、はるかに長身のソープ嬢と一戦してバギナの包み込み具合に感動することがよくあるのに、こやつらはよほどペニスが細いのでしょうか。女性に気持ちがのるセックスをさせることは金輪際できないのでしょうねえ。
 ソープ嬢は数多くのペニスを受け入れるからバギナがガバガバだというのはとんでもない偏見です。非経産婦ならばそのようなことは滅多にありません。
 さて、エロ小説やエロ実話記事におまんφの締まり具合がよく表現されるのは一体どういうことなんでしょうか。
 皆がおまんφの締まり具合のよくないことに不満を感じることが多いから、締まりの良い女性に出会うとこれにすっかり感激し、それを強調するのでしょうか。
 決してそんなことはないと私は思いますねえ。
 おまんφの締まり具合が気になる人は、よほど勃起ペニスの細い人か、それとも、センズリのやり方が、棹の幹を握りたてて速い速度で強くこすっている人なのではないでしょうか。特に後者は、それで抽送時間が20分も要するようになると、大概の女性にはつらくてたまらないでしょうねえ。
 私は、男性のオナニーのやり方として、亀頭を掌で揉むようにこすりなさいと書いていますが、あらためてこのことを強調したいです。バギナにペニスの全体を強く挾まれないとペニスが感動できないのでは、女の人が気の毒です。そんな機能をバギナに求めることは無理です。
 女性週刊誌には、バギナの圧力を強くする方法なんかがよく書かれています。
 これはある意味では馬鹿馬鹿しいことです。並の圧迫のバギナでも男が快感を感じて射精できるように、男が体質改善をすべきです。この訓練は、あくまで経産婦が考えるべきことでしょう。
 但し、お産をしても、普通は、セックスに違和感を感じない程度までバギナのサイズが戻るものです。要するに、膣圧を高めなければいけない女性なんてそんなにいるものではないと思います。
 何も風俗の女ではなくとも、素人の女が相手でも、遅漏による女性の苦痛というものにもっと思考を巡らすべきでしょう。
 どこかのセックス関連の馬鹿なウェブサイト(恋愛Manual)にも
「男性をとりこにするためには、膣の締め付けの訓練が欠かせない。毎日毎日の訓練で2〜3年は最低かかる。自由自在に膣の締め付けができる膣が名器である」
 とアホなことが書いてあるそうです。
 そんな物理的なものではないですよねえ。(私はこんなバカなサイトは眺めません)
 とにかく私には、バギナについて言えば、濡れと温かみが一番の着目点です。その上で、中がでこぼこしておれば結構です。
 凸凹はともかくも、濡れと温かみについては、女性が、気持ちが乗った状態、欲情した状態に至っていることが一番のポイントで、これに重きを置かずに、物理的なことに目を向けているセックスアドバイザーというのは、もうそれだけで他人に助言する資格がありません。
 女性週刊誌は、バギナですんなり射精できない彼氏を持った女性のために、手こきの正しいやり方を解説するとか、仮性包茎のペニスはどこに注意して洗浄すべきかを大きく図解するとか、クンニをさせる女性はおまんφをどのように洗うべきかとか、彼氏が真性若しくは強度の仮性包茎だったらどのように対応したらいいのかとかの、もっと「本当にためになること」を記事にすべきです。
 でも、編集スタッフの中核が、仮性包茎でハンド中毒のペニスの男ばかりだったらそんな発想は出てこないですね。やっぱり『膣の圧力を強くする方法』とか『フェラチオのやり方』とか『ペニスの刺激の仕方』が特集記事になります。
 『クンニリングスのやり方』とか『クンニリングスを男にさせる誘導方法』とか『クンニリングスを願う女性のあそこの正しい洗い方』などについてはちっとも特集を組まないです。
 女性週刊誌が、クンニをしない女性にクンニのやり方を説明したってしょうがない、と考えてはダメですよ。
 クンニをされたことがない女性は、どうクンニをされたら気持ち良いのかということも、男性の‘クンニのつらさ’も、どの程度の割合で男性かクンニをするのかということも、男性にクンニをさせる切り出し方も、クンニをさせるのは道徳的に悪いことではないということも、とにかく知らないことがあるのです。
 女性週刊誌が書くべきは『フェラチオのやり方』よりは『クンニリングスのやり方』であるべきです。
 というわけで、そんなくだらない女性週刊誌に対しては、女性は不買運動を起こしましょう。
 クンニを望むのははしたないことだと思っている女性や、クンニのやり方を男に説明することのできない堅い女性がたくさんいるのだから、赤字の記事は存在意義があります。

 街角の光景

 去年の夏(平成14年頃)、名古屋の街を歩いていた時のことです。
 道幅が5mぐらいの車道の横断歩道にさしかかった時、見知らぬご婦人から、どこかのビルの在処を尋ねられました。
 知らないことを答えたら、丁度信号が赤になって、私達は立ち止まりました。
 すると、横断歩道の向こう側に40代ぐらいの小母さんがたたずんでいました。服装はルンペン風で、服はボロボロ、髪の毛はぼさぼさ、へらへら笑っていて、精神に異常があるようです。
 その女がいきなりスカートをたくし上げて、色褪せたパンツを股ぐらまで下ろし、股間を指でまさぐりはじめました。
 私はあっけにとられるとともに、道を尋ねたご婦人が隣におり、しかもその女性が、ニットのワンピースを着てヘアーメイクはばっちり、いいところの奥様風なので、少々困りました。
 乞食女の指の動きは、もう痒いところを掻くというよりは、オナニーそのものです。
 主要国道の五叉路で、信号がなかなか変わらないから、弱りました。
 すると、乞食女はスカートを下ろして歩きだしたので、やれやれと思ったのですが、すぐ立ち止まり、道ばたの杭状の金属柱に跨るようにしました。何かと思ったら、ニタニタ笑いながら腰を前後に振っておまんφをこすっています。
 隣の奥様がどういう顔をしているのか見たかったのですが、私は存外に純情でして、おろおろしてあらぬところへ目をそらしていました。真っ昼間に、思わぬところで女の性欲の根元事象に直面しても、名古屋の浮浪者対策のことを考えなくては…と思考が逃げ出したくなります。
 信号が変わると同時に、私達は足早に歩きだしました。

 秋の一日

 私は仕事を休暇にして朝からスーツを着て家を出ることをよくやります。40歳の頃でもこれをやってました。仕事で憂鬱になるとリフレッシュ行動に出るのです。
 一番多いのは「映画鑑賞→金津園」ですが、「(外出して)無為にボーッとして時間を過ごす→金津園」とか「(見分を目的として)どこかに行く→金津園」ということも時々やります。
 無為にボーッというのは、春や秋などの季節に、朝も早くから名古屋の久屋大通の公園(テレビ塔のあるところ)のベンチに座って本を読んだりホームレスを眺めていたりという不毛の行為です。根がケチだから喫茶店には入りません。
 公園で2時間ぐらいは時間をつぶすのですが、私と同じようなネクタイ姿の男がベンチに長時間いるのをよく見かけます。
 この人たちは私と同じように『仕事』が馬鹿馬鹿しくて、勤め先に出る顔をして家族に玄関で見送られ、公園で無為の時間つぶしをして、鳩の啄む姿や手を繋いで歩く若いアベックをボーッと眺めているのだろうかと思うと楽しいです。
 仲間や後輩や上司が仕事をしている姿を思い浮かべながら、「お前ら真面目人間にはこういうことはできないだろう」と考えているのですね。
 私は仲間には、仕事熱心で仕事の厳密な遂行に小うるさい男と見られていただろうから、そんなことをしている姿なんて誰も想像できないと思います。
 でも、こういうことをやっていると絶対に鬱病にはならないだろうから、結構だと思います。
 さすがに50代になるとベンチでボーッというのは、尻も腰も痛くなるし、長い間思いに耽るなんて根気もなくなるし、これはやらなくなりました。
 秋のある日、私は翌年には仕事をリタイアする感慨に襲われたこともあり、久し振りに「どこかに行く→金津園」をやってみました。
 岡崎、ここは名古屋に近いところなのに、私は行ったことがありませんでした。で、岡崎城と家康に関する展示でも見てみようかという気分になりました。
 名鉄電車で東岡崎まで出ました。予想通り小さな町でした。川が流れていて結構なところです。外人さんの姿を何人か見つけました。『トヨタ』があるから岡崎のような田舎町まで結構国際化しているのですね。
 少しバスに乗って、それから岡崎公園まで歩きました。博物館とお城を見ると、丁度お昼になりました。城自体は鉄筋コンクリート造りのいわば偽物だけれど、木々と石垣と堀の城周りの光景が一応昔を偲ばれます。
 東岡崎から岐阜に出て、本屋の立ち読みで時間をつぶしました。
 近頃は団塊の世代向けの本が多くなりました。私はこの手の本は立ち読みするだけで買いはしません。書いてあることは、どうやって生き甲斐とか楽しみとかを見つけるか、少ない年金でどう生きていくのか、ということが多いようです。
 私はリタイアする来年からどう生きていくのか、このところこれを考えることが多いです。答らしきものはちっとも出てきません。
 働かなければならないほど、年金収入が少ないことはない。かといって、何もしないのはいやだ。何をしたらよいのだろう。要するに、この問答の繰り返しです。
 楽しみを見つける努力はしてきました。その成果が『良性記』です。でも、これがリタイア後2年も続けられるような気はしません。そんなに続けていたら、どんどん内容に面白味がなくなるような気がします。
 一つだけ想い決めていることがあります。それまでの会社勤めで関係していた人とは一切縁を切るということです。きっとせいせいすると思います。
 喫茶店で時間をつぶしながら(俺の特長はエロだ。エロで余生を楽しんでいこう)と思っているうちにソープの予約時間が近づいてきました。
 店に電話して送迎の車を頼みました。
 嬢に対面すると、エレベーターで待ち受ける顔は満面の笑み。私の上着を洋服掛けにかける背後からドレス越しにお尻を撫で回しました。
 23歳の嬢が「キャー」と言って振り向くと再びとろけんばかりの笑み。コケットリーを振りまきながら私の差し出した絞りのネクタイを受け取りました。
「まあ、素敵なネクタイ。着物地から作ってあるのかしら」
 異次元の世界に突入です。

 皆さん「病は気から」というのをご存じだと思います。でも、これを本当に認識している人はあんまりいないのではないかと思います。
 ガンウィルスのせいで細胞が異常に成長して胃ガンになる。淋菌に感染して淋病になる。細菌が腸に入って大腸炎になる。腹冷えで下痢になる。歳のせいや何らかの外因で肌が痒くなる。このように単純に理解しているのではありませんか。
 おニューの革靴を下ろしてひどい靴擦れができ、炎症が出て痛い。皮膚科に行くと「靴が合っていない」と言われます。でも、私がこれまでの人生で、足のたこ削りに夢中になっていた時は必ずストレスが激しい時でした。そうでない時は新品の靴を履いても、また、長い距離を歩いても足には痛みが生じるようなたこができません。
 下痢だって、激しい症状に悩んだのはやはりストレスが強かった時です。淋病だって、心身が健全であれば淋菌が素通りしたかもしれません。
 どんな病気も物理的な、或いは、生理的な外圧・進入物・作用によって起こるのだろうけれど、好ましくない変化が起こってしまう要因にストレスが激しく絡んでいると思います。ストレスなかりせばそうならなかったというのは人の発病のかなりを占めると思います。
 私が突発性難聴の憂き目にあったのも、ワイフが大腸ガンから胆嚢と肝臓に転移した最悪の状態というストレスが原因だと思います。
 だから、ストレスは消さねばなりません。一番良さそうなのはストレスを与えてくれた人間を消すことですが、罪になるのでこれはできません。それに、これをしてしまえば、犯罪発覚の恐怖や警察の取り調べの苦痛や刑務所生活などでまた新しいストレスができます。
 ストレス解消は、提供元抹消や自殺以外の方法で、自分で何とか達成しなければいけないのです。
 男にとってプロの女とのセックス遊びは最高のストレス解消です。
 ネットを眺めていると、「僕は仕事が忙しいので、土日しかソープにいけません」と書いてあるのをよく見かけます。
 仕事が忙しいのは誰だって同じ、自分だけ忙しいような書き方をしているから、そして、休暇なんて取れないと悲壮感で働いているから、それが間違っている──そう私は思いますね。ソープは極端に言えば、土日に突撃してはならないところなんですよ。体温あるダッチワイフ化の傾向が少し出てきますからね。
 とにかく毎日9時の始業で夜の9時を超えて働くというのは仕事の効率と良き仕上がりを絶対に阻害します。職場の全員が悲壮感と徹底残業協力の連帯感に浸るだけです。
 休みが取れないと嘆いているような人に良い仕事をする人は少ないと私は思います。日展一位とか、芥川賞、ノーベル賞を貰うクラスのお仕事とはまるでかけ離れた仕事をしているのに、そんなことで切実感・切迫感・犠牲的精神だなんておかしいです。
 嬢は、土日なんて儲かっても苦痛ばっかりで悲愴なものだわ、と内心ぼやいています。
 土日しかソープにいけないと悲壮感で働いている男が、土日は気が重いと思っている嬢のマンコにただ肉槍を突き入れるだけの遊び方をして、ネットでくだらない質問をして、いかにも皮相な人間です。
 悲壮、悲愴、皮相の意味を説明できないお人は、辞書で確認しておいてください。
ソープ嬢の土日が苦痛のわけ
(1) 性交過多による性器の傷み。マットプレイによる筋肉痛。
(2) 心やすく話ができる常連客が来ない。
(3) 気疲れする初対面の客が多い。しかも、遊びなれていないのが多い。従って、気疲れも多大である。
本編を書いたのは平成18年の秋だが、ここで予想したことが平成21年秋ではどうなったか。
(1) リタイア後にどうやって生き甲斐とか楽しみとかを見つけるか。
──日常生活としてはまだ良き回答が得られていない。ただ、無上の楽しみが1つだけできた。
(2) 少ない年金でどう生きていくのか。
 ──とにかく生活を切りつめた。
(3) 良性記がリタイヤ後2年も続けられるような気はしない。
──非常勤の勤務が1年あったので、完全リタイアは平成20年6月となった。
 ここでは常勤が終わる平成19年6月から2年は続けられないと予想した。
 実際良性記の最後となった平成21年1月初めの段階では平成21年9月頃に新作のUPが終わる見込みだった。しかし、良性記の停止による再構築があってUPが予定よりも滞り、平成22年1月までは新作が出せるようだ。
(4) それまでの会社勤めで関係していた人とは一切縁を切る。
 ──その通りにした。
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