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私のエッセイ自撰集2

 もっとも心に残る言葉

 私が、これまでで一番心に残っている言葉とは、一体何か?
 私は自分の父が大層嫌いでして、殆どそのことが理由で、名古屋に本社を置かず国内に広く事務所等を構える会社に就職しました。
 どうしてそのような就職を望んだのかというと、父との同居を避けるべく、独身寮に入りたかったからです。
 父を嫌っていたのは、母が私に「こんな人と結婚したくなかった。私にはもっとふさわしい縁談があった」とよく語ったからです。それに、父は私と性格がまるで正反対でした。
 父が高等小学校しか出ていないことは侮蔑の対象ではありませんでした。それどころか、低学歴なのに文学全集を買って読む心に感服していました。
 父が母よりも収入が乏しいことも侮蔑の対象ではなかったです。しかし、母の稼ぎを利用して贅沢をしていたことが子供心に許せませんでした。
 私が35歳の時に東京から名古屋に転勤し、実家の家が同居するには狭いから、すぐにこれを建て替えました。もうその頃は私もオトナになり、父を毛嫌いする気持ちが失せていました。
 そして、同居の暮らしが落ち着いたと思ったら、父は胆嚢ガンにかかりました。
 それがわかってから僅か半年で父は亡くなりました。60代後半の人生を経験しないままのあっけなさでした。(昭和60年1月)
 父はガンの切除手術を受けました。手術後、先生からは取りきれないガンがたくさんあり、余命幾ばくもない、と教えられました。
 手術の傷が癒えた頃、正月を家で過ごすべく、父は病院から一時退去を許されました。しゃれこうべに薄く皮膚が張った、楼蘭のミイラのような顔でした。
 何日か家で過ごしてから、父は病院に戻ることになりました。父は病院で死ぬために戻るのだとわかっていたと思います。
 タクシーを呼びとめた時、父は私の顔を見て、ぽつりと一言言いました。
「自愛せいよ」
 やせ衰えた顔から出てきた言葉、トーン、表情、これが一生忘れられないものです。死去の3週間前の言葉でした。まだタクシーに乗り込む力は残っていました。

 結婚式

 甥や姪の結婚式ならともかくも、会社の部下の結婚式なんかに出るのは実にばかばかしいと思います。どうして来賓招待なんてことをするのでしょうか。
 何故ばかばかしいかというと、来賓なんて所詮飾りなんですねえ。それでもってこちらは貴重な休日が半日つぶれ、お金が3万円以上消滅します。しかも、披露宴はどちらかというと時間をもてあまします。
 人のつがいを見て、こいつらファックするんだ、と思って見ていると、ほんと馬鹿馬鹿しくなります。
 新婦がきれいですと、どうしても丸裸の姿を思い浮かべ、亭主が果たして女の可愛がり方を知っているだろうかと気になってしょうがないです。(20代の男が、夜の、女の可愛がり方を知っているということは可能性が低いですからねえ)
 最近、腑に落ちないことと腹が立ったことが一つずつありました。
 腑に落ちないことは、新郎新婦の会社関係者まで挙式に出ることです。私は、挙式は近しい親族だけでやるべきだと思います。全員参列は教会式の影響なんでしようか。
 神式や仏式なら、親族だけで厳粛にやってもらいたいと思いますよ、挙式だけは。
 腹が立つことは、披露宴のショー化と「成人式」化現象です。
 最初に来賓挨拶がありますよねえ。この来賓挨拶が済むまでは、披露宴は粛々と進行すべきです。ところが、私がこの間出た披露宴は、市町村が主催する成人式と同じで、若い人が話を聞かずに、私語を交わしています。全くわかっていない連中ばかりです。どうしてそうなるんでしょうかねえ。
 よろしくなかったのは、最初の新郎側の主賓挨拶で乾杯まで持ち込んだことです。それでは、新婦側の主賓挨拶に至る頃には席がざわつくのが当たり前です。
 祝辞を朗々と述べている最中なのに、新郎新婦の両親がビールを注ぎにまわっているようでは、ノウハウの蓄積を誇っている結婚式場なのに、一体何を考えているのかと思わざるを得ません。
 それは、男が一生懸命腰を振ってピストン運動しているのに、下になったソープ嬢が指で鼻をほじっているようなものです。
 来賓挨拶というのは、時々素晴らしいスピーチに出会うことがあります。こちらまで感動してしまって、夫婦とはなんぞやと考えさせられるものですねえ。
 来賓挨拶を頼まれるような人は、社会人として立派な人ばかりです。よく買春するような人は選ばれません。だから、脳みそに染み渡るようなスピーチを聞くことがあります。
 祝辞には、新郎なり新婦なりの人柄紹介と結婚に当たってのアドバイスが必ず入るのですが、人柄紹介で見事に笑いを誘い、結婚生活についてのアドバイスでは場内をしんみりさせます。アドバイスは、夫婦間の妥協の心と両親への感謝の気持ちの大切さ、伴侶を得たことにより、これからはより真剣に人生を生きること、こんな内容ですねえ。
 どんなに素晴らしいスピーチでも、新郎新婦は気持ちが舞い上がってまともに耳に入らないと思います。
 まっ、来賓挨拶は不要と考えたいですねえ。私は、社会的地位の高い人が目立つのは虫が好かないのです。どんな男も、金津園の女の前ではただの客です。
 30年前からずーっと疑問に思っていたことがあります。
 新郎新婦は2度3度とお色直しをします。ファッションショーをやらせて、素人の女を一生に一度だけ芸能人気分にさせたい気持ちもわかります。
 しかし、招待客をほったらかして宴席から消え失せる時間があんまり長いのは問題です。新婦がブスだったら悲惨でしょう。無理やり「きれいだわよ」と言われさせるなんて。
 それに、せっかくのスピーチを新郎新婦が聴けないのがよくないです。まともに食事も摂れません。
 およそ30年前のことですが、お色直しのために新郎の友人や会社の仲間の話を聞くことができなくて残念だったと語った花嫁がいました。私の妻です。
 やはり余興なんていうのは少な目にして、心のこもったスピーチが続くというのがいいですねえ。
 USAでの結婚の披露宴の参加費用は日本の会費(ご祝儀)の半分以下、それこそ100$程度ですみます。
 傾向としては、日本より簡素で、進行も、アトラクションのようなものが全くなくて、じっくりお喋りし合うという形だそうです。挨拶・スピーチの形のパーティは、かなりの格上(著名)の人物の挙式にならないとないそうです。
 そういうのがいいかどうかは別にして、新郎新婦が各参列者と談笑をしっかりとして、また、料理もきちんと食べるという点で、日本式よりも遙かに結構です。
 私は、日本式にかならずある、最後のお涙頂戴の儀式が大嫌いです。あれは、「やらせ」の典型です。
 自分の子供の結婚式では、貸衣装のファッションショーを鑑賞させられ、世代交代の「若さ」を見せつけられなければならないのかと思うと、ファッションヘルスに行きたくなる〜ぅ。

 ブログについて

 私はブログというものが嫌いです。何が嫌いか。
(1) どれもこれも何故か字が小さい。そして、背景の色が濃くて字が読みにくいものが多い。
(2) 表示画面によけいなもの(情報)がいっぱいついているのが不快である。
(3) トラックバックというものを好かない。
(4) ブログはサイト以上に猫も杓子もこれを作るから、品質の悪いものが多い。
(5) ブログはhtml文書よりも容易に作れるというのが売りだが、そもそも安直に作れて、制作者の都合で所定のものを何か変えるということが難しいというものが私は嫌いだ。
 ブログは実に読みにくいものが多いです。そして、トラックバックなんて本当にくだらないと思います。
 皆、自分の立ち上げたサイトが他人にどう見られているのかを目一杯気にしているのです。自分の考えが正しいと思っているのなら、人がどう見ているのかを意識することなく、ゴーイングマイウェイでやっておれば良いでしょう。
 世間に好感を持って読まれているかどうかはアクセスの状況を見ればわかります。自分の意見が他人にどう受け入れられているのかを具体的な記述文言でもって知りたくてしょうがないという心理は情けないと思います。
 深く感動した人とか、深く不愉快に感じた人は、必ずサイトの制作者にメールをしてきます。メルアドさえ出しておけば必要充分でしょう。
 その考えに対して自分がどう思ったかを、トラックバックを利用して赤の他人にも見えるようにして送ってくるような意見に、有意義なものはないと考えておけばよろしいです。
 なぜなら、当該評論先のみならず赤の他人にも広く示したいというような考えは、
 自分の人生も本性も、なんにもぶっつけて来はしないからです。
 年齢、婚姻情報、住居情報、所得水準、教養水準、美醜水準、学歴、偏った拘りの有無、性癖の本性──
 このようなものの全部を隠して、或いは、改変したうえで自分が披露したいことだけを言っている。
 そんなものに何の価値があるのやら。
 自分のブログを紹介したいだけか、自分のHNを示したいだけのことなのかもしれません。
 だから、トラックバックははなはだしくアホな企画です。皆、自分をPRしたいだけです。自分がどう思われているかを知りたいだけです。自分勝手なんです。
 その人間の本性を見抜いてトラックバックを開発した奴は実に賢い人間です。
 さて、Wikipediaの『ブログ』や『トラックバック』の解説を眺めると、どうしてここで『眞鍋かをり』のブログごときが紹介されねばならないのかと思います。それは破格の優遇でしょう。そんなしょうもないことをするなら、良性記のこのページも紹介して貰いたいものです。
 眞鍋かをりについて、性的に熟した男の大多数が知りたいことは、(本当の本音をえぐり出せば)彼女のマンコの形、チンボを入れた時の感触でしょう。彼女のブログなんてどうでも良い。

 陸生動物の進化

 Wikipediaによると古生代の区分は次です。
   カンブリア紀 オルドヴィス紀 シルル紀 デヴォン紀 石炭紀 ペルム紀(二畳紀)
シルル紀(Silur)とは、地球の地質時代の1つで、古生代に属し、およそ4億3500万年前から4億1000万年前をさす。オルドヴィス紀より後ろの時代であり、デヴォン紀の前にあたる。この時期、昆虫類や最古の陸上植物が出現する。
イギリス・ウェールズの古民族名「シルル族」より命名された。(1950年頃までは、スウェーデンのゴトランド島にちなんで「ゴトランド紀」と呼ばれていた。)
シルル紀初期、南半球にはゴンドワナ大陸というかなり大きな大陸があり、赤道付近には、シベリア大陸、ローレンシア大陸、バルティカ大陸という3つの中程度の大きさの大陸、そしてアバロニア大陸という微小大陸があった。ローレンシア大陸、バルティカ大陸、アバロニア大陸の間にはイアペトゥス海という浅い海が広がり、多くの生物が繁栄していた。しかし、3つの大陸は徐々に接近し、4億2000万年前に衝突した。このためイアペトゥス海は消滅し、ユーラメリカ大陸(ローラシア大陸とも)という大陸が形成された。
 私は中学生の時に「顔ごと…」と覚えていました。カンブリア、オルドヴィス、ゴトランドの頭だけ取っています。ところが、いつの間にかゴトランドと言わなくなっていたのですね。二畳紀も使われなくなっていました。
 私は以前エッセイに次の文を書きました。
 陸上へ進出した最初の植物はコケ類だと言われています。そのコケ類は多分海から上陸したのであって、淡水域から上がったのではないでしょう。
 では、動物はいかにして上陸を果たしたのでしょうか。海からなのか、川からなのか。脊椎動物と非脊椎動物とでは上陸の仕方はどう違うのか、脊椎動物の場合は海の底を歩く能力をつけてから上陸したのか、そうではないのか、先に肺呼吸を完備してから上陸したのか、上陸してから肺呼吸をうまくするようになったのか、四肢が発達してから上陸したのか、上陸してから四肢が発達したのか、地上の何かを食べるために上陸したのか、上陸してから食生活が変わったのか、こんなことが知りたいです。
 これを出したのはもう随分昔になりますが、その後明確な答はあんまり得ていません。
 再びWikipediaからの引用です。  ポイントは、恐竜の祖先となる双弓類と哺乳類の祖先となる単弓類が生まれたということですね。
 平成18年の夏、NHKで『恐竜VSほ乳類』という番組が出ましたが、これを見ると最近中生代の研究が急速に進んでいるようです。大陸の形と位置、大気の組成、気候、植物の状況、こういうものの研究が進み、更に、中国の熱河の化石群などの発見によって、三畳紀、ジュラ紀、白亜紀の生物のことがかなりわかってきました。
 見事なテレビ番組だと感心して見ていましたが、この頃の恐竜やほ乳類の体色だとか動作だとか実にもっともらしくCGで映像化されていたけれど、制作者の想像はどの程度合っているのでしょうか。
 丁度この頃私は次の二冊の本を読みました。
 『恐竜VSほ乳類』1億5千万年の戦い  NHK「恐竜」プロジェクト編(ダイヤモンド社)
 『人体 失敗の進化史』 遠藤秀紀 光文社新書
 遠藤秀紀氏の著作で新書版に『解剖男』がありますが、『解剖男』よりも『人体 失敗の進化史』のほうが雲泥の差でおもしろいと思いました。
 今『人体 失敗の進化史』はよく売れている本です。読んでない人は是非お読みになると良いと思います。
 私は『人体 失敗の進化史』では次の記述に興味を覚えました。
1.爬虫類と哺乳類の前肢帯の違い
 前肢帯とは胴体と腕の骨を接続している装置や骨や領域を言い、鳥口骨や肩甲骨はここに分類される(育野注)
 前肢帯には古くからの設計図がある。ニワトリもヒトも、その設計図を無理矢理に手渡された後世の生き物である。そして、ニワトリは鳥口骨を、ヒトは肩甲骨を、祖先の前肢帯の中から、主役の役者として大抜擢したのだ。これを、ある意味、古い設計図を元にした、設計変更と呼べるだろう。前肢帯の設計がもともとかなりしっかりしたものであったため、それをマイナーチェンジすることで新しい動物が生み出せる。進化はもちろん突然変異や自然淘汰の積み重ねだが、種は形の設計図を逃れることのできない運命にある。その運命が分けた設計変更の相違が、ニワトリとヒトの肩の形を、ここまではっきりと隔ててしまったのである。
 ちなみにヒトの方だが、正体はご存知の哺乳類だ。以前の考え方なら、哺乳類は爬虫類の一群から生じ、それこそ恐竜や鳥とはまったく違う歴史を歩んできたとされてきた。この話の後半は正しいのだが、いまでは、哺乳類を生んだとされていた爬虫類の系統進化の考え方が大きく変わり、哺乳類は爬虫類を介さずに、根源的には両生類から直接生じたとするほうが妥当だとされるようになっている。両生類のような脊椎動物から、ニワトリに行く爬虫類の系統と、ヒトに至る哺乳類の系統が、かなり古い時代にまったく別の進化の道を歩み始めているというのが、本当らしい。ちなみに、よほど古いタイプの哺乳類を持ち出さない限りは、肩甲骨優位・鳥口骨消失という状況は、私たちヒトだけのものではなく、哺乳類全体に普遍的に確立された設計図となっている。
 鳥類と哺乳類。この両者が違う道を進んだ正確な時期は不明だが、大雑把には三億年前。古生代石炭紀と呼ばれる時代が妥当なところだ。
2.骨の来歴──体の支持+リン酸カルシウムの貯蔵庫
3.哺乳類の耳小骨の来歴──顎の骨が変化
 このほかにも興味深い指摘がいっぱいあります。おもしろいですよ。

 カラー写真が豊富な『恐竜VSほ乳類』では次の記述に興味を覚えました。
1.哺乳類のポイント
 内温性の発達、聴力の発達、大脳新皮質の発達→哺乳類の夜への進出(ジュラ紀)
 被子植物の拡大、昆虫の増加→哺乳類の食性の多様化(白亜紀前期):胎盤の獲得(白亜紀後期)
2.恐竜のポイント
 高二酸化炭素時代、植物の低栄養化→恐竜の気嚢システム・巨大化:羽毛の出現→鳥の誕生(ジュラ紀)
 羽毛恐竜の繁栄(白亜紀):天体衝突→恐竜の絶滅(白亜紀末)
 で、先のエッセイの私の疑問ですが、脊椎動物の上陸は、現在は「海から」ではなく「淡水から」というのが定説になっているようです。
 では、「川から」だったのでしょうか、それとも、「湖沼から」だったのでしょうか。
 わからないことがまだいっぱいあります。
 ウミヘビがいます。ヘビが海に入ったのか、ウミヘビが陸に上がったのか。タラバガニはクモの仲間と言います。タラバガニの先祖がクモになったのか、その逆なのか。
 昆虫の進化の話というのはあんまり読んだことがありません。一体どうなっているのだろうかと思っていたのだけれど、ふと『昆虫の進化』で検索したら、いろいろ説明文がありました。勉強になりました。
 ミミズのような生き物から蝶やバッタに進化した理屈は理解できましたが、『変態』なんて難しそうなことがどうして実現できるようになったのかは想像ができません。
 進化ってすごいです。
 200万年前の人類?の♀はもうクリトリスオナニーをしていたのでしょうか。

 注目すべき新事実です。
<ウニ>遺伝子数、ヒトとほぼ同じ 欧米研究チームが解明
 ウニのゲノム(全遺伝情報)の解読を、欧米の研究チームが完了した。遺伝子数はヒトとほぼ同じ2万3000個で、遺伝子の70%がヒトと共通していた。研究チームは「遺伝子レベルでは、ハエや線虫に比べヒトに近い。このデータは進化の解明につながる」と驚く。10日付の米科学誌「サイエンス」に発表する。
 解読によると、ゲノムの大きさを示す塩基数は8億1400万対でヒトの4分の1だった。チンパンジーとヒトは99%の遺伝子が共通しているが、ハエとヒトは40%とされる。
 また、今回の解読で、ウニは生まれながらに病原体を認識するよう働く遺伝子をヒトの20倍多い200個以上持つことも判明。研究チームのカナダ・トロント大の日比野拓研究員(医学生物物理学)は「病原体の感染後に得る獲得免疫を持たないことを反映していると考えられる。ヒトの感染防御の仕組み解明にも役立てたい」と話す。
 ウニは、せきつい動物と共通する祖先から5億2000万年前に分かれたと推定されている。生物の発生過程などを調べる実験によく利用される動物として重宝されている。【田中泰義】
(毎日新聞) - (2006年)11月10日9時43分更新
 脊椎動物は魚からスタートしたのだけれど、その魚は、現在のホヤのような動物が幼生進化したものだと考えられています。すると、この研究結果は納得できます。

 飛行機の不思議

 飛行機がどうして空を飛べるかということについては、いまだに解明が完結していないそうです。
 ベルヌーイの定理がわかっても、飛行機が空を飛ぶ理屈がまだはっきりしていないと言われると、あのジャンボジェットような重量物が空中に浮かんでいる不思議さに、いくつになってもただひたすら驚いている私としては大変嬉しいです。
 あれは、身長149cmウエスト69cmの、でべその若い女が素っ裸で、マントだけ着けて、スーパーマンか、マトリックスのネオのように空を飛んでいるような異様さがあります。
 でも、これだけすべてのことに科学的解明ができているに、飛行機がどうして空を飛べるかがわからないなんて本当に不思議なことです。
 私は、何かことが起きれば、乗客が必ず死に至る飛行機というものが嫌いです。
 私の父と母は、外国へ何度も観光旅行をしています。しかし、私は業務の出張で海外へ飛んだことはあっても、観光旅行をしたことはありません。
(会社の慰安旅行は業務上の都合と定義します。いやいや立場上で行っているからです)
 理由は、そんなことで金を遣うぐらいならソープでお金を消費するほうがましだと思っていること、国内で未訪問箇所がたくさんあるのに海外とは何事だと思っていること、家庭の事情、そして、飛行機が嫌だからです。
 何故飛行機が嫌いかというと、墜落しない保証がないということと、私の両耳が人工の鼓膜であることによります。あの気圧の変化に、私の両耳の人工鼓膜は耐え切れないという不安があります。
 何よりもいけないことは、あの搭乗員、決して膨満的体型ではなくて、背丈も必ず160cm以上あって、いずれもお尻の形のいい、しかも、風俗嬢とは知性も教養も雲泥の差の、あんないい女が飛行機の中をうろうろしているのに、エッチなことができないというのが、神経に悪いです。
 私は運悪く飛行機に乗るハメになると、私の座席の横を通りかかったスチュワーデスが、超乱気流による急降下で天井まで浮き上がり、濃紺のタイトスカートをまくり上げたまま両脚を開いて、股間を私の口に押しつけるように落下してくる姿ばかりを妄想します。

 どうして皆助平さが足りないの

 長年エロいところに出入りして、私は女に「貴方のような見事な助平は今まで会ったことがない」とよく言われました。
 2年とか5年とか風俗稼業をしている女からこれを言われると、私はとっても勃起力が増加します。
 金津園に出没する前、ピンクキャバレーやヘルスの店に入っていた頃にも、相方の女に言われました。そもそも、はるか昔中学生の時から、仲間にそう言われていました。
 金津園では、もう、大勢の女にこの言葉を言われております。いったい、何回こんな発言を女にされたことか。言われた女とは、まず、愉しく遊んでおります。
 私のようなタイプの客と遊んだことのない、いわゆる、純情可憐の路線で商売してきた女は、もう、私の言動にあっけにとられて目を丸くすることがあります。その表情を見るのが愉しいですねえ。
 喋る言葉も露骨だし、やることは、もろ、エロっぽくて、しかも、顔が生真面目そうで、とてもインテリっぽいから、特に意外に感ずるようです。
 ノーブルな感じがする美女系のヘルス嬢で、若くておとなしい男しか相手にしたことのない女ですと、エロさまるだしで、全身これ卑猥な私は、全く驚愕すべきお客になることがあるようです。
 しかし、女に聞くと、客の大半が助平さのレベルが低いことに、女達があきれているのです。
 私の助平になれてしまえば、女はニコニコし、エロくプレイができない普通の客をからかいます。風俗遊びに陽性助平は大変結構なことなんです。
 どうして皆助平さのレベルが低いのでしょうか。
 なお、助平さのレベルが低い人というのは、たとえば、この良性記を見ても、内容のエロさにあきれてしまうんですねえ。ネットで、その手の発言を時々見ます。この程度の上品なエロについてこれないのです。
 だから、良性記を何度もアクセスしている人は、間違いなく『助平』です。

 なぜトイレの後に手を洗うの

 女性がトイレに入った後手を洗うのは、割れ目や会陰に伝った尿を拭かねばならないことや便所の中で接触箇所が多いことなどから、まあ必要性を理解します。
 しかし、男性の場合は、どうしておしっこをした後に手を洗うの?と思います。私は、子供の頃から、小用の後殆ど手を洗ったことがないです。
 どうして自分のチンボを触った手が汚いのですか。
 男小便器の洗浄のプッシュボタンは汚いと思いますよ。だから、指先で押さずに、掌で押します。或いは、接触面積を最小限にするために、げんこつを作って、中指の根元の関節の突き出たところで押します。
 要するに、私は小用の後で手を洗いません。
 テレビを見ていたら、風邪の防止には、一にうがい、二に手洗いということです。口と歯の健康のためには、毎食後の歯磨きが一番だそうです。
 私の勤務先でも、その通りにしている人が、男性の場合一割以上はいるようです。私はそういう、立派な、まじめで潔癖な、健康増進キャンペーンの表彰対象になるような人とはおつきあいをしたくないです。
 大体が50代の男性で、食後に毎度ちゃんと歯を磨いている人のうち、女とまじめにセックスする人が一体どれほどいるのでしょうか。殆どいません。少なくとも私の知り合いの中では。
 そこまで口内の衛生に気を遣って、キスは飼い犬とする程度ではしょうがないです。
 私に言わせれば、太郎でなく、遅漏でなく、釣ろうでなく、照ろうでなく、徒労です。
 私は今でも若い頃でも、つきあいたい女がトイレの後にいかにも潔癖そうに石鹸液を使って入念に手洗いを済ませる性格でしたら、急速に慕情が萎えると思います。(衛生的に潔癖な女ほどセックスが愉しくやれない女はいません。求婚する時、このことは大変大切です)
 性愛にこそ、潔癖さは悪です。洗浄してから大いに時間が経過していても、そのチンポコとおまんφをお互いに舐めるのが本当の性愛です。(前述の女では金輪際69ができません)
 なお、この考えは風俗の女に強要してはいけませんよ。私も決して強要しません。(ただ、熱烈なオーラルプレイに痺れて、自然にそのようになることが殆ど100%です)

 生命保険の話

 生命保険の話といっても、掛け捨てがいいか貯蓄型がいいかの話ではありません。
 また、生保レディの勧めに乗って切り替えしてもいいかの話でもありません。
 この問題については、答がはっきりしています。生保レディの勧めというのは、自己の実績を上げるのが目的であって、殆どは客のためにはなりません。
 何を書くかというと、私の生命保険に関する事例で、私の判断を具体的に述べることをします。
所与の条件:
1.満57歳到達
2.企業年金の受給権と金額は確定済
3.住宅ローン等の借金は完済済
4.長男〜結婚済、長女〜未婚、妻 有り
5.自己の土地(相続予定)に、自己の住宅
契約内容 保険金 保険期間 保険料1 保険料2
終身保険  350万円  終身 8,089円  同左
定期保険特約 2,860万円  5年 19,363円 29,859円
傷害特約  500万円  5年 290円 295円
 定期保険特約と傷害特約は、52歳の時に継続の契約をしたと思ってください。(払っている保険料は『保険料1』です)もし私が不慮の事故で死亡すれば、計3,710万円が給付される契約です。
 これが、5年経過して57歳になると、特約の更新の時期が到来しました。対象となる契約は、
  災害死亡時…3,360万円、通常死亡時…2,860万円の加算部分の保険です。
 私は更新可否の検討をして、所与の条件を熟慮の結果、定期保険特約と傷害特約は一切継続不要で、終身保険さえあればいいと判断しました。終身保険の350万円が支給されれば充分だと考えたのです。
 理由は、たとえばもし私が58歳で死んだとしても、国の年金も、勤務先の企業年金も、妻には必ず遺族対応の額が支給され、路頭に迷うことはないからです。終身保険の350万円が葬式費用になればそれで充分でしょう。
 要するに、3千万とか2千万円の死亡保険とは、一家の大黒柱が壮年の時までは必要であっても、壮年を過ぎて子供が就職までしている時にはもう不要ということです。年金や退職金の給付が確定しておれば完璧に要らなくなります。
 保険会社はなんとか更新継続させたいと、あの手この手でPRしますが、私は一切問答無用を貫きました。
 もし同じ給付を期待して定期保険特約などを継続したとすれば、表に示したように、保険料は「1」から「2」へアップします。年金生活者になったら、保険料1の総額(27千円強)でもつらいのに、保険料2の総額(38千円強)の月掛けではたまりません。
 なお、今考えれば、52歳から57歳まで「保険料1」を払ってきたのは馬鹿馬鹿しかったですね(その特約で毎月2万円がパーです。2ヶ月に1回分ソープに行く回数が増やせました)。せめて、特約の保険金額を減らすぐらいのことをしておけばよかったです。
 私が52歳の時なら、子供は生活力が間もなくできようとしていた頃だし、私の勤務先の退職年金も50歳にまで到達しておれば、殆ど間違いがないというところまで来ていたからです。毎月19,000円の+αの保険料支払はやはり不要でした。こういうのは後になってからわかるものなんですねえ。
 要するに、勤務先の年金が確定し(確定する時期が近づき)、子供が経済的に自立すれば(自立できる時期が近づけば)、死亡保険金は本当に必要な最低レベルの金額確保で考えればいいです。
 しかし、生きていてお金が要るケース、たとえば、ガンで入院し、手術代が2百万円、そして長期の入院費用、こういう負担には、年金生活者はとても困ります。
 だから、死亡保険金は大層な額を考えなくてもいいにしても、ガン保険等は絶対に入っておかねばなりません。自分が生きている時が大切なんです。
 ローンの残高がある人とか、就学の子供がいる人とかは、年金の受給が計算できる人でも、「死亡保険金」を確保しておかなければなりません。
 ソープ遊びなんていうものは、こういう先の安全まで考えつつ、読み切って、消費可能額を消費するということです。

 なお、日本人の多くは明らかに生命保険をかけすぎです。大して年収のない人でも、5千万円クラスの保険を組んでいる人がたくさんいます。
 就学児童がいる間はそのかけ方が理解できますが、子供が大学生になったようなときは、もうそんなに保険金は要りません。そういう意味では、終身保険を(葬式費用や墓代で遺族に負担をかけぬよう、或いは、相続税補填として)3〜5百万円ぐらいでかけて、リスク対策は掛け捨てでやるのが一番です。
 念を押しますが、上の定期保険特約などは掛け捨てです。10年間毎月2万円ぐらいのお金を出して、保険金の支給が発生しないときは何も戻りません。もったいないと言えばもったいない。
(即々NSの高級ソープに通える人にとってはどうでもいい話かもしれませんがね……)
 掛け捨ての生命保険や傷害保険は、掛金効率の良いものを選ぶべきです。そして、掛け捨ての生命保険は自分の子供が大学生になるまでかけておれば充分なのではないでしょうか。
 生命保険料の所得税法上の控除恩典は10万円までです。要するに、年間10万円を大幅に超える生命保険料を支払って、「俺は、リスクや将来のことをよく考えている賢い男だ」などと思ってはいけません。
 年末調整を見ていると、年間の保険料支払が20万円を超える人って結構います。掛けすぎでしょう。
 返戻型生命保険の保険料が10万円以下、掛け捨て型生命保険の保険料が5万円以下、ちゃんとした企業年金が用意されているのならこれぐらいで充分なのではないかと思います。
 日本人が皆こういうふうに賢く考えるようになれば、生命保険会社は一挙に傾きますね。損保にしても、生保にしても、そこの社員は給与水準が高すぎます。損保や生保の企業の勤務者(管理職)は、ユーザーよりもはるかにゴージャスな生活をしています。傾けばいいのです。
余談:
 ガン保険は人気があります。でも、ガンになれば保険が下りるなんて思っていたらダメですよ。
 約款をよく読んでください。保険金を出さずにすむように、いろんな工夫が込められています。
 興味のある方は、『上皮ガン&ガン保険』で検索してください。日頃自分の健康に気をつけ、定期健康診断にかかっていて、かつ、自己の肉体の変化にそれなりに気を配り、ガン発病をおそれているような人は、だいたい上皮ガンの段階で発見できますからね。また、上皮ガンの段階で発見しなければダメなんです。
えろえろ考察  日記  秘密の愉しみ  トップページ
(千戸拾倍 著)