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昔読んだ本、そして我が青春時代 1

 私は中学2年生になってから、先生の薦めに従ってノートに読書記録をつけるようになりました。
 ハイ、私は良いことを先達から勧められると、素直に従う癖が、子供の頃からありました。皆さんも是非そうしてください。若しくは、お子様にそのように指導されるとよろしいです。
 先生の指導通りに、読書記録に感想文を書きだしたらこれはもうきりがありません。感想文を一行でも良いから書くのは読書記録の目的にかなうのですが、そんな負荷をかけたら一年以内に挫折します。
 そう思って、感想は一切書かずに、ノートの一行に、作品名とページ数と読んだ日等の本一冊についてのデータを書き込んだだけです。(大変賢い判断でした)
 とにかく大変あっさりしたメモですが、あっさりしているだけに長く書き続けられました。
 今、老年期に至ってこれを眺めていると、もうすっかり郷愁に浸ります。自分が10代20代の時にどんな本を読んでいたのかを振り返ることができるのは、とっても愉しいことです。
 中学2年生(S35)
 中学2年の頃は下に掲げるような本を読んでも、同じ年頃の女と喋ることはからっきし駄目でした。
 (読んだ順は、第1列↓、第2列↓、第3列↓ です)
シャーロック・ホームズの帰還《コナン・ドイル》 地球の歴史〜岩波新書 検察官、外套《ゴーゴリ》
雍正帝〜岩波新書《宮崎市定》 井伏鱒二集
オリエントの神話 新書版 不惜身命、こぶ他《山本有三》 これが象だ!〜岩波新書
ジーキル博士とハイド氏《Stevenson》 羅生門、鼻他《芥川龍之介》 ジンギスカン〜岩波新書
赤色館の秘密《ミルン》 大塩平八郎、堺事件《森鴎外》 人間とは何か〜岩波新書
秘密の花園《バーネット夫人》 忠直卿行状記他《菊池寛》 漢の武帝〜岩波新書
続芥川龍之介名作集 山椒大夫、高瀬舟他《森鴎外》 二十一世紀からの報告
武者小路実篤名作集 生きとし生けるもの《山本有三》 井伏鱒二集
芥川龍之介名作集 文鳥、夢十夜他《夏目漱石》 武州公秘話《谷崎潤一郎》
川端康成名作集 それから《夏目漱石》 真田軍記他《井上靖》
路傍の石他《山本有三》 春服《芥川龍之介》 異域の人他《井上靖》
ゲーテ名作集 愛する人達《川端康成》 即興詩人《アンデルセン》
小泉八雲名作集 井上靖集 モンテ・クリスト伯《A・デュマ》
源頼朝〜岩波新書 長与善郎、野上弥生子集 絵島生島《舟橋聖一》
シャーロック・ホームズの冒険 親鸞とその妻《丹羽文雄》 ポオ・メルヴィル集
菊池寛名作集 ヰタ・セクスアリス《森鴎外》 戦国無頼《井上靖》
谷崎潤一郎名作集 少将滋幹の母《谷崎潤一郎》 蒼き狼《井上靖》
森鴎外名作集 刺青他《谷崎潤一郎》 風と雲と砦《井上靖》
夏目漱石名作集 傀儡師《芥川龍之介》 盲目物語、聞書抄《谷崎潤一郎》
掌の小説《川端康成》 黄雀風《芥川龍之介》 シャーロック・ホームズの事件簿
敦煌《井上靖》 風《山本有三》 ウジェニー・グランデ、ゴリオ爺さん、谷間の百合《バルザック》
夜来の花《芥川龍之介》 川端康成集
硝子戸の中《夏目漱石》 親鸞《吉川英治》 石中先生行状記《石坂洋次郎》
阿部一族他《森鴎外》 無事の人《山本有三》 デカメロン《ボッカチョ》
蟹工船・党生活者《小林多喜二》 蓼喰ふ蟲《谷崎潤一郎》 若い人《石坂洋次郎》
湖南の扇《芥川龍之介》 風流滑稽譚《バルザック》 アンナ・カレーニナ《トルストイ》
吾輩は猫である《夏目漱石》 春琴抄《谷崎潤一郎》 暗黒事件《バルザック》
井上靖集 与謝野晶子訳源氏物語1〜3
 これを眺めると、バルザック〜『風流滑稽譚』『谷間の百合』、アンデルセン〜『即興詩人』、シャーロック・ホームズ物、谷崎潤一郎〜『少将滋幹の母』、石坂洋次郎〜『石中先生行状記』『若い人』、山本有三〜『路傍の石』『不惜身命』『生きとし生けるもの』、トルストイ〜『アンナ・カレーニナ』、井上靖の歴史小説、岩波新書の『地球の歴史』『雍正帝』『漢の武帝』、こういうものが懐かしいです。
 素晴らしい本を読み終えた時、私は本当に幸せでした。『地球の歴史』『雍正帝』『漢の武帝』は年数をあけて二度三度と再読しています。
 川端康成〜『愛する人達』、丹羽文雄〜『親鸞とその妻』、舟橋聖一〜『絵島生島』、随分大人の本を読んだものです。
 このB5版のノートをカメラで撮りました。【写真1】です。
 上の欄外に(昭和)35年と書いてあります。この左の最初の行で説明します。
 自、J、蟹工船・党生活者、小林多喜二、242、1、H   と書いてありますが、
「自」は購入で「図」が図書館を表し、「J」は日本の作品を示します。「242」はページ数で、「1」は1日で読み終えたことを示し、「H」は全読していないことを、また「P」は完読したことを示します。
 この時は多分『党生活者』を読まなかったのだと思います。(人民主義やロシア革命には好意的であっても、日本共産党は嫌いでした)
 今これを眺めているかたに中学生や高校生のお子さんがいる場合には、お子さんにこの程度の読書記録を残しておくことを勧めたらどうかと思います。
 この程度のものであっても、これをしておくと、自分が読んだ名作名著のことを長く記憶に残すことができます。ちょっした手がかりが記憶につながります。本のことだけでなく、その当時自分が何を考え何に悩んでいたを30年経っても50年経っても振り返ることができます。
 それに、もっといろんな本を読んでやろうという意欲が湧きます。この読書記録は決して馬鹿にはできません。


 この頃の思い出を以前『34という忘れられない数字』というタイトルでまとめたので、それに加筆して思い出に浸ります。
 良性記の雑感の各作品は、修飾のタグを除くとサイズが34kbのものが多いです。
 どうしてそうなるかというと、34という数字が、私はどうも潜在意識的に好きなのです。
 34は私には思い出の番号です。気合の象徴です。
 これは何かというと、東海中学に入った時、クラスでの番号が34──これは入学試験の成績で割り振られ、クラスで63人中34番目の成績という意味──これが私には我慢ならない惨めな席次でした。(戦後ベビーブーマーの私たちの場合、一クラスの人数というのはこれくらいに大量でした)
 私の出た昭和区の◎●小学校からは、その年東海中学に2人しか入っていませんでした。当時の◎●小学校は完璧に田舎の小学校で、名古屋市の中ほどにある小学校とは学力に相当差がありました。
 で、私は◎●小学校で優秀な学力だった筈なのですが、それでも東海中学ではクラスで34番目。
 恐ろしいところに来たぞ、と私は思いました。こんな順位は、それまで「すごい勉強のできるお坊ちゃん」と親戚や近所の人に言われてきた私には我慢のできないことでした。
 その頃東海中学は、1学期〜実力、中間、期末、2学期〜実力、中間、期末…のように試験がありました。クラスでの成績順位の推移が次です。
 34、42、33、37、27、11、20、19、17、17、1、5、1、…
 こんな数字の列を今でも憶えています。通信簿に載っていたこの数字をよく眺めていましたから。
 中学に上がって初めてのテスト(実力)の成績がクラスで42番という惨状は、小学生の時に、体育の成績を除外して考えれば、クラスの男子生徒の中ではトップだっただけに、すごいショックでした。
 34、42、33、37という悲惨な成績は、親に対して申し訳ないという心をかき立てました。その後この数字を小さくすることに如何に熱意があったかは、数字の記憶が証明しています。
 この数字を小さくすることを真剣に考え、何やら格闘していましたが、最初は勉強の手法がわからなくて結果がでませんでした。
 そのうちに、試験の問題というのは授業で直接的に教えていない問題が出てくるものだと理解しました。教科書を何度も眺めているだけではだめで、問題集を解いておれば、学校の成績は自然に上がっていく、とわかってしまえば、数字が小さくなっていきました。
 得意の科目は、数学、物理、化学、地学、世界史、日本史、地理、でした。
 私の通っていた中学校は教科がこのように分かれていました。教科書は公立中学で使っているものよりもうーんと難度が高く、活字のサイズがまるで小さかったです。
 問題集を解くことについて私の執念は凄まじいものがありました。答がわからなくてもなかなか正解を覗きませんでした。回答できたと自分が思えるまで、たった一つの因数分解の問題を2週間でも考え続けていました。
 中学生で、大学の入学試験問題まで載っている難しい問題集に挑んでいました。
 中学3年のときの担任の先生が、こんな短期間でここまで成績を上昇させた生徒を見たことがない、とクラスの全員の前で言いました。
 担任と言っても、教科毎に担当の先生が違い、しかも、教科がかなり細分化されていたから(国語ですと、中学1年から、国語正、国語副、国文法、漢文、古文と授業が分かれていました)、担任の先生による授業がそんなに多くなくて、小学校の担任のようには生徒との強いつながりがなかったです。
 34は私が中学一年の時に経験した暗中模索の努力の象徴で、私には大変特別な数字でした。自分の価値の低さがそれでもって示されたという痛打でした。
 数字の記憶の強烈さは、(1) 努力すれば成果は必ず出る (2) 上手に努力すれば成果は極めて早く出る の実感を胸に刻みました。
 中学2年のときの想い出が一つあります。担任の先生は地理を受け持っていて、その授業の時でした。
 先生が私ともう一人の生徒を指名し、それぞれ黒板の右端と左端で日本の地図を書くように求めました。多分その生徒はクラスで最も地理の点数が悪く、私は学年で一番地理の点数が良かったのだと思います。
 私はチョークを手にして、根室半島、宗谷岬、ノサップ岬、松前半島、津軽半島、下北半島、三浦半島、駿河湾、淡路島、佐田岬半島、島原半島などの形を思い浮かべながら、初めて書いたにしては我ながら感心するくらいに克明に地図を書きました。(当然のことながら、女性器構造図もその頃クラスの誰よりも見事に書けました)
 もう一人の描いた絵は一筆書きみたいにあっさりと短時間で書いて、全く日本地図の形をなしてません。
 先生は「日頃地図を熱心に眺めている者とそうでない者とは、書く地図がこれほどまでに違うんだ」と言って、頷いていました。
 私は確かに地図帳を熱心に眺めていたけれど、日本地図よりも世界地図のほうが好きで、タートン(大同)、ヤンツーチャン(揚子江)などの言葉を覚えるのが好きでした。先生は、私がフランスの地図でもって、ブルゴーニュ、ブルターニュ、アルサス、ノルマンジー、シャンパーニュ、ロレーヌ、プロバンス、ギエンヌ、ガスコーニュのおおよその位置まで示せることは知らなかったと思います。
 バルザックの小説やフランス史が好きになると、それぐらいに多角的に好奇心を拡大させていました。だから、私の勉強というのは、豊かな好奇心のおかげですぐにどこかへ飛んでいってしまったのです。

 更にもう一つ思い出があります。
 私の母が自慢することに、私の小学校から高校までPTAに皆勤であるというのがあります。
 そして、昔から母がよく話すことがあります。
 中学2年生の頃、私は成績が大躍進して、多分そのことが理由となり、先生がPTA会の満座の中で、私の母に質問しました。
「お宅のお子さんは大変成績が素晴らしいのですが、お子さんは毎日どのような生活をしているのでしょうか。お子さんの日常生活で参考になりそうなことを皆さんに少し語っていただけませんか」
 母は質問されてドキドキしたものの、一瞬考えてから、次のように答えました。
「うちの息子の生活ぶりは皆さんのところとそんなに違ってはいないと思いますが。ただ、息子は本をよく読んでおります。テレビを見続けているということがありません。7時のNHKニュースは必ず見ております。家に帰ると、本を読むかテレビを見るかをしていますから、勉強ばかりしているということではありません。親の私から見て、感心だと思うことは、毎朝必ず朝刊(当時は朝日新聞だったかな)を1面から2面3面と順番に読んでいき、いつも紙面全部に眼を通すことです」
 毎朝必ず朝刊を読み、最終面の番組表とかスポーツ記事からでなく、第1面から順番に眺めるということに、他のお母さん方から感嘆の声が一斉に上がったそうです。
 そして、学校の先生は自分の質問が効果的なものであったことに満足して盛んに頷いていたようです。
 今、あの頃から47年経過、今では最終面の番組表から新聞を見ています。堕落しましたね。
 この頃我が家では事件がありました。それに関して書いたのが次です。

 私は成人しても自動車の運転免許をとるのが嫌でした。どうしてそんなふうになったのか。
 私には潜在意識的に大変嫌な記憶があったのです。
 私が中学2年の昭和35年に父が自動車事故を起こしました。人身事故で、私が50代になった頃母に聞くと、どうも5百万円ぐらいの賠償金を払ったらしいです。
 父は安月給で、多分年収の数倍の支払だったと思います。私は、勉学に集中しておればよいという親の考えで一切話を聞かされていませんでした。
 私は私立の中学校に通っていたのですが、当時は今よりも公立中学との学費の差が大きかったです。ただでさえ親は学費を出すのがつらかったでしょうが、賠償金債務ができてからは家計は壊滅的状態だったと思います。
 その頃、学校の昼飯の時間に、級友に私の弁当箱を覗かれ、「おまえ、いつもおかずが同じで、冴えないものばかりだなぁ」と言われました。確かに仲間の弁当のオカズは肉類が入っていて、種類があって、私の、野菜炒めがほんの少しだけ入っている弁当とは違っていました。
 私はむちゃくちゃショックでした。家に帰ってからこのことを母に怒り口調で言うと、母も強烈な打撃を受けたのでした。30分後ぐらいに顔を見たら、泣いていました。
 私はクラスの仲間に弁当で侮辱されるのは嫌だから、蓋で隠して食べました。しかし、それも憂鬱だから、そのうちに毎日60円貰うことにしました。
 学校にパン屋が入っていたので、50円だけパンを買い、浮かした10円を集めて、学校帰りに週に一度65円のラーメンを食べるのを楽しみにしました。
(毎月定例の小遣いは貰っていたけれど、それは別会計で、本と映画とレコードで消費していました)
 両親はとにかく子供に愚痴を言わない人でした。私がまだ幼稚園に入る前、両親は納屋橋辺りで喫茶店をやっていたのですが、会計を店員に任せていて、ごっそりお金を抜かれて飛ばれたことがありました。これを聞いたのも、父が死んで私が40歳を超えた頃でした。
 だから、私は父が人身事故を起こしたことしか知りませんでした。
 私が昼飯にうまいおかずを食べたいと思っていた頃、それは、夕食でもご飯に鰹節と醤油をかけて、おかずは胡瓜だけという情けないものだった頃なのですが、突然母が働きに出るようになりました。
 高級反物を訪問販売するようになったのです。これで母は父の収入の倍以上稼ぐようになりました。
 そのかわり帰りが遅くなりました。私は当時学校の図書館に行くのが唯一の楽しみでした。たっぷり立ち読みした後、腹を空かせて家に帰りました。
 小学生の妹も腹を空かせています。ヤンマーラーメンというのを買って、ゆでて食べるのが毎日のようになりました。
 何故お袋はいつも夜の7時半になって、帰ってくるのだろう。俺たちは寂しいがや。俺たちの夕飯を一体どう考えているんだよぉ!──そう思うと、車の事故のことに思い当たりました。
 それで私は、車は決して運転するものではないと思い決めるようになったのです。
 運転手がつく人間になってやる、本気でそう思っていましたが、それから45年、結局運転手付きの身分にはなれませんでした。その代わり家族全員がタクシーの愛用者になりました。
 私が55歳ぐらいの時、母が死んだ父についてポロリと愚痴をこぼしました。
「あの人は、もう馬鹿みたいに真面目な人。事故で相手をかたわにするぐらいの怪我をさせると、毎日病院に見舞いに行って、全財産でお詫びしようとするんだから」
 ここまで書いたら思い出しました。ろくなおかずが作れないのに、息子に毎朝60円を渡すというのはおかしいです。これは、間もなく母が働くようになって、朝私の弁当を作るのが大変になり、それでお金で貰うようになったのでした。
 この習慣が高校まで続き、昼食代の単価が次第に上がって、とうとう毎日「浮かす金額」が大きくなり、それでもってタバコを買ったり、ビリヤード場に通いつめたりするようになったのです。その上、エロな本ばかり読んでいて、麻雀とパチンコをよくやっていて、考えてみれば、志望の大学にちゃんと合格したのが不思議です。
 まあ、弁当のことで悲しい思いをせず、夕飯を自分で作ることがなかったら、車の免許を人並みに取得したことは間違いありません。
 ソープ嬢と仲良くなって、雑談に興じて、たまたま私が車の免許を持っていないことを教えることがあります。
 それはめずらしい話だから、必ず嬢が何故免許を取っていないのかを質問します。私はいつも「足が短くて、アクセルに足が届かないから」と返します。
 すると、身長が160cmに達していない嬢は冗談だと理解しますが、160cmを超える嬢は「運転席は前に出せるのよ」と言います。
 そう返されるたびに、こいつは俺をチビと見ているのだな、と自虐の精神に浸ります。
 中学3年生(S36)
何処へ《石坂洋次郎》 泉鏡花三編〜角川文庫 石川達三集 蒼氓他
じゃぱん紳士 乾隆と香妃《長与善郎》〜角川文庫 二流の人他《坂口安吾》
与謝野晶子訳源氏物語4〜 わが日わが夢《石坂洋次郎》角川文庫 脂肪の塊《モーパッサン》
狭衣物語他_日本文学全集第四巻 雁の寺《水上勉》 薔薇と荊の細道《石川達三》
世界文学全集25レマルク 凱旋門他 現代日本文学全集40石川淳・太宰治・坂口安吾 乱菊物語《谷崎潤一郎》
昭和文学全集_獅子文六集 円地文子集
シッダルタ《ヘルマン・ヘッセ》 現代日本文学全集30 佐藤春夫 スペードの女王他《プーシキン》
江戸川乱歩傑作選 舞姫他《森鴎外》〜新潮文庫 嵐が丘《ブロンテ》
日本語再発見〜現代教養文庫 あすなろ物語《井上靖》〜新潮文庫 九十三年《ユーゴー》
千一夜物語 出家とその弟子《倉田百三》新潮文庫 自分の穴の中で《石川達三》
数学入門上〜岩波新書 大菩薩峠1巻〜8巻《中里介山》 神坂四郎の犯罪《石川達三》
卍《谷崎潤一郎》 こころ《夏目漱石》 静かなドン《ショーロホフ》
史記 現代日本文学全集 井上靖集 行人《夏目漱石》
流刑地にて他《カフカ》 悪人列伝《海音寺潮五郎》 苦悩の中を行く《A・トルストイ》
ドイル傑作集T《コナン・ドイル》 更生記・陳述《佐藤春夫》 裸者と死者《N・メイラー》
美しい暦《石坂洋次郎》 チャタレイ夫人の恋人《DHロレンス》 雪夫人絵図他《舟橋聖一》
山と川のある町《石坂洋次郎》 女の一生《モーパッサン》 神々の戯れ《佐藤春夫》
青い山脈《石坂洋次郎》 スタンダール集 赤と黒他 舌をかみきった女他《室生犀星》
暁の合唱《石坂洋次郎》 ロマン・ロラン集ジャン・クリストフ 人間の運命《ショーロホフ》
女同士他《石坂洋次郎》〜角川文庫 風と共に去りぬ《ミッチェル》 英国史《アンドレ・モロワ》
愛情他《石坂洋次郎》〜角川文庫 芦刈《谷崎潤一郎》 フランス史《アンドレ・モロワ》
乳母車《石坂洋次郎》〜角川文庫 ベラミ《モーパッサン》 ペールキン物語《プーシキン》
堕落論《坂口安吾》〜角川文庫 丘は花ざかり《石坂洋次郎》 ウィンダミア夫人の扇《O・ワイルド》
白痴《坂口安吾》〜角川文庫 ナナ《エミール・ゾラ》 女学者《モリエール》
馬鹿一《武者小路実篤》〜角川文庫 悪の愉しさ《石川達三》
『史記』『源氏物語』『大菩薩峠』『ジャン・クリストフ』『風と共に去りぬ』『静かなドン』、もう超長い作品に挑戦していました。
 石坂洋次郎の小説はポルノ的な要素があり、私は性的好奇心を満開にして、熱中して読みました。今あまり読まれなくなったのが不思議です。
 レマルクの『凱旋門』、史記、与謝野晶子の源氏物語、夏目漱石、谷崎潤一郎、長与善郎、石川達三、舟橋聖一、佐藤春夫の諸氏の小説、そして『チャタレイ夫人の恋人』を読むと、大人になったような気がしましたねえ。
 ここでは石坂洋次郎の諸作品、ミッチェルの『風と共に去りぬ』、ショーロホフの『静かなドン』と『人間の運命』、スタンダールの『赤と黒』、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』が特に懐かしいです。
 そして、アンドレ・モロワの『英国史』『フランス史』はとってもわくわくして読みました。

 中学3年の時というのは、私にとってはある意味で人生の転換期でした。
 というのは、黒板の字が読めないことを理由にして最前列の席に移ったからです。本当の理由は先生の声が聞き取れないからそうしたのですが、何故そんなことが一大エポックになったのか。
 当時の東海中学の席の並びは成績対応でした。成績が一番の者が最後列の左端で、そこから成績順に座席が決まり、最前列は学力の最も乏しい者が座りました。
 私は最後尾から最前列に席替えして、予期せぬ環境の激変に大いに驚いたのです。
 最後列の世界というのは、生徒が映画雑誌の『スクリーン』を隠し持っておれば、そこにはハリウッド女優の巨乳水着姿が載っているから、息子の堕落ぶりに親が大いに慌てふためき、正座させてふしだらさを叱責し、翌月の小遣いをカットする家庭の子弟です。連中は静かに先生の授業を聞いています。私語を交わすことなくサラサラとノートを取る音だけを発します。各人の英語の単語帳は単語がびっしりと記入してあります。市販の問題集を買って毎日学習をします。先生の話が脱線して世間話になると、数学の問題集を取り出す連中です。ペニスは皮被りが多いです。
 一方、最前列の生徒は、授業中に『スクリーン』とかファックの写真を回覧する連中です。小遣いはふんだんに親から与えられ、先生の話を聞くのは、授業が脱線した時だけです。ノートは落書きだらけ。試験の答案用紙はいつも半分以上が無記入。
 チンピラ、悪童、悪ガキ、ませガキ、万引き、恐喝、番長、マス掻き集団、喫煙、喫茶店たむろ、絵に描いたような自堕落な世界です。秀才の私には、見ること聞くこと物珍しい邪悪の事柄ばかりで、純白でふわふわのナプキンが臭い下り物を吸収してクリーム色に染まるように、当然すぐにそちらのほうに感化されました。
 喫煙し、単価3千円程度の高価本を狙って万引きしました(昭和36年の3千円ですよ。小遣いが少ない時に、欲望が目覚めるとどうしようもないですね)。痴漢もしました。生まれて初めて喫茶店に入り、コーラというけったいな飲み物を飲みました。(昭和36年では、コカコーラを飲んだことのない日本人が沢山いました)
 要するに、純粋培養された皇族の皇子様が、学習院の中学で悪ガキと親しくなり(学習院でも不良はいますよねえ)、2ちゃんねるに投稿したりスカートの奥を盗撮したりエロ動画を集めたりして堕落の道に入りこむようなものです。
 で、私は秀才の上に、ポピュラーソング、ハリウッド映画、エロ本という領域に大変詳しかったです。その連中に尊敬されることは甚だしいものがあります。悪ガキに慕われる点においては、現在2ちゃんねらーに慕われるがごときであります。
 私は悪ガキとの交際を通じて、
《劣等生も、<秀才の>自分と同じように『人間』である》
《怠惰とか自由奔放とか言いたい放題とか他人を罵るとかまじめをからかうとか先生をこけにするとかいうのは、とっても愉しいことである》
《『吉永小百合』はさゆりであって、こゆりではない》

の三点を学んで、シッダルタのように悟りを開いた境地になり、その対価として、成績を学年順位で50番ほど落としました。
 悪ガキ連中との交際を通して覚えた喫煙と麻雀とビリヤードはその後長く愉しむことになりました。
 しかし、いくら不良連中と交際して凡才に変じても、本質的な知性と純真な体質までは変わりません。ここに掲げた、一年間で読んだ本というものが、当時の私の姿を物語ってくれます。
 その頃東海中学は、(名古屋市立)名城小学校からの合格者がとても多かったです。
 ある先生が「名城小の出身者は伸びたスルメのように伸びきって入学するから、ここに入ってからはそんなに伸びない。田舎の学校から来た奴のほうがよく伸びる」と言いました。(現に名城小の卒業者が何人かいるのに、教師ともあろう人がこんな発言をしたから、私は内心かなり怒ってこの言葉を覚えていました)
 私は成績席次を一旦極小値まで小さくさせると、しかも、学年でトップの席次を達成してしまうと、もう完璧に満足しきってしまいました。それを持続させることに殆ど価値を見いださなかったことが問題ではありました。
 問題集を解きまくる人生よりも、『赤と黒』や『パルムの僧院』や『戦争と平和』や『アンナ・カレリーナ』や『幻滅』や『魔の山』や『静かなるドン』や『風と共に去りぬ』や『大地』や『ジャン・クリストフ』や『チボー家の人々』や『大菩薩峠』や『人間の条件』や『源氏物語』などの長編を読みふけったり、ビリヤード、パチンコ、麻雀をしたり、女性の腰部断面図解を眺めたり、学校の図書館で惑星の写真や『尊卑分脈』の藤原氏の系図を眺めたりすることにより大きな価値を見いだしたのでした。


 次はこの頃の思い出を書いたものです。

 生物は環境に支配される
 中学の時の生物の先生が大変珍妙な風貌をしていて、声の抑揚がへんてこで、とても印象に残っています。
 その先生が、それこそ授業の度に「生物は環境に支配される」と高揚した口調でおっしゃっていました。あまり何度も言われるので、聞き飽きて、また、朱に交われば赤くなるのたぐいの教訓かと鼻白む気分もして、一種小馬鹿にした気分でした。
 でも、大人になって、生物の進化や種の絶滅の話などを読むと、まさしく「生物は環境に支配される」と思いました。
 だいたい、この世に何故脊椎動物が現れたのかという問題を考えると、大変面白いです。カンブリア紀は無脊椎動物の天下でした。生物は環形の多関節の体で充分だったわけです。それが、脊索を持った体の柔らかい、長い生き物が出てきたのです。
 この生き物が現れた背景は、地球の重力と水の中を速く移動する要求であると何かの本で読んだ記憶です。
「生物は環境に支配される」という言葉で考えなければいけないのは、これは種の進化や絶滅に関係する重要な要素ではあっても、人間にはそれほど当てはまらないということです。
 人は、智力と経験と忍耐で環境にうち勝つことができるし、環境をみずから改善することができます。環境とか運命のせいにして努力を惜しむ理由にしてはならないです。
「生物は環境に支配される」という言葉と一種似た感じがするものに、唯物史観があります。
 歴史は特定の個人によって動くものではなくて、人民の願望、総意、富の分布の偏り、そういったもので必然的に流れが決まるのだという考え方です。
 唯物史観の人から見れば、織田信長や西郷隆盛や勝海舟によって歴史が動いたかのように書いている司馬遼太郎の小説は、無知な大衆が読む単なる娯楽作品になってしまいます。こういったものは虚言の妄説扱いです。
 私は系図好きですから、唯物史観の書物を読むと大変腹が立ちました。それは高校生や大学生の時でしたが、今振り返るとやっぱり唯物史観というのは、組織の力、組織を束ねる人間の力というものをあまりにも過小評価しているとしか思えません。
 だいたい企業なんていうのは、トップの考え方や力量によってどのようにでも変わるものです。人の動きを一番左右するのはやっぱり人です。ソープ店やヘルス店で、女に良い接客をさせるのも、完璧に店長の力量です。
 世の中の趨勢というのを変えられるのは人です。
 私が就職を検討していた昭和44年頃は、トヨタ自動車なんてすぐつぶれるような見方をされました。車の輸入の自由化によってです。ところが、今アフガニスタンの映像を見ていると、砂漠の中を走っているトラックはトヨタです。
 今から15年ぐらい前ですか、アサヒビールがどんどんマーケットシェアを落とし、本生をオレンジ色かなんかのいやらしい色の缶で販売していた頃は、サッポロかサントリーに吸収される絵が見えていました。ところが、スーパードライで息を吹き返し、一番最後に登場させた発泡酒でも大逆転勝利を収め、今ではキリンを押しのけています。
 ですから、女にもてないと歎いている人は、とにかく自分を変えて、もてるようにする手立てが必ずあるはずです。
 好奇心・向上心・嫉妬心のトライアングルの思考展開で、「なせばなる、なさねばならぬ、なにごとも」です。

 超かっこわるい人生
 私は超かっこわるい人生を送ってきたことには自信があります。
 大体が、チビデブハゲの三悪の一翼の『チビ』を子供の時から担っています。そして、当初は秀才だったのに途中から学力を伸ばすことを放棄しました。
 中学三年生の時、坂口安吾の『二流の人』(黒田官兵衛を描いた作品)を読んで、私はその作品の主張とは多分無関係に‘二流の人’という語感に痺れました。
 そして、‘二流の人’というのは自分のことではないか、これから何を努力したって自分はその程度なのではないか、と強迫観念に襲われました。
 私は学年でトップの成績を達成しても、勉強以外の世俗のことにしか興味がかき立てられないのを取り繕いたかったのでしょうか、それとも、私と同等の成績を上げる連中が世の中のいろんなことに大して関心のないまま勉強ばかりしているのを感じて、いずれそのくだらない奴らに負けてしまうことを察知したのでしょうか、‘二流の人’とか‘敗残者’とか‘異邦人’とか‘背徳者’とか‘異形の人’とかの言葉が妙に好きになりました。
 そして、体操とか球技というのは全く苦手で、運動神経が零点であることが激しく屈辱でした。強度の近眼の上に耳の聞こえが悪いということがつらかった。熱中する体質であっても、わかってしまうと見放すのも見事でした。
 私は、完遂ができないことと、すんなり事が運ばないことには自信があります。
 中学2年から3年にかけて抜群の学力を誇っていたのに、すぐに努力の継続を放棄しました。高校の時の部活〜弁論部、いやになり退部です。大学の時の部活〜山岳部、いやになり退部です。いずれもまともにOBになっていません。
 社会人になってからも、4年も同じ職場にいると飽きが来て、転勤希望を言い出していました。
 運動神経が零点であることの反動として、学生になってからは山登りには力を入れました。短距離走はまるでだめでも、長距離走は何とかなった体質だから、登山は自分に向かない運動ではありません。でも、神経的に高所恐怖症で絶壁恐怖症の男が、剣岳や穂高岳の岩壁でロッククライミングを楽しめるわけがありません。
 大学は5年かかって卒業しました。情けない。
 就職は難聴のせいで面接試験がうまくいかずに難航しました。私は天の邪鬼で、No.1が嫌いです。だから、業界一位や二位の会社は一切狙わなかったけれど、それでも就職活動は冷や汗ものでした。
 就職しても結局大して出世せず、子供の教育にはいささか失敗したと思っているし、蓄財もできず、家族を幸せにできたとは思わないし、親不孝はたっぷりしているし、やったことといえば、ネットでこれを眺めている人がそれなりの数いるということだけです。
 子供の頃の大志と違い、実に情けない人生です。嵌めることが人生の目的で、どうにもだらしない。ほんとうにかっこう悪い。天下一品のかっこわるさです。
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(千戸拾倍 著)