18歳未満の方は入場をご遠慮下さい。

懐かしき山登り

 私は無職で毎日無為に過ごしているが、NHK BSの「世界の名峰グレートサミッツ」や「にっぽん百名山」は欠かさず見ている。山岳遭難のニュースが出れば必ず注視する。
 結婚し、子供ができてからは全く登山靴を履いたことがないけれど、それまでは‘山キチ’だったから、こういう番組や報道には心が向かう。
 登山靴、ピッケル、アイゼン、寝袋、キスリング、こういう道具を使用しなくなってから、これを捨てるのになんと25年ぐらいかかった。どうしてあんな素晴らしい趣味を捨てて、おまんφ趣味だけにしたのだろうかとよく考えたものだ。
 ただ、登山好きの心は残っていて、還暦を越えても、久能山(東照宮)、三河鳳来寺山、岐阜金華山などを登っているし、奈良には日帰りで2度行って、いずれも4時間は歩いている。
 こういう運動をするたびに自分の体力の無さにガックリ来た。まあ、僅かな数でもヤルだけ結構だと思っている。

 私は昭和40年に大学に進学し、山岳部に入った。高校までまともに部活をしたことがないので、大学ではこういうことをちゃんとやろうと思った。
 私は運動能力が極めて低い。体操の成績は小学校から高校まで3以下ばかりだった。それでも、登山に憧れていたから勇気を出して山岳部に入った。
 入部すると大男がいなかったから、小柄な私でもついて行けそうだと思ったし、先輩たちとちょっと雑談すると、読書家が多かった。いわゆる体育会系の猛者がいないから、私は不安が薄らいだ。
 総合大学だから新入部員6人がいろんな学部に散らばって、何かと情報が得られそうだと思って喜んだ。
 ただ、私はその山岳部が怖い怖いロッククライミングをやらないことを期待していたので、部室の倉庫にザイルやハーケンなど物々しい登山道具がいっぱいあるのを見るといささか不安になった。
 びっくりしたのは、すぐゴールデンウイークに北アルプスに行くと言われたことだ。それまで雪に覆われた山に入ったことがないから、恐ろしいことになったぞ、と思った。
 山岳部とワンゲル部とどう違うか知らない人もいると思う。
ワンゲル部──登山道を非積雪期に歩く。高い山を登ることもあるが、基本は低い山である。
山岳部────岩登り、沢歩きをする。要するに、登山道でないところも登り、積雪期も登る。
 要するに、ワンゲル部では、スキー用品、アイゼン、ピッケル、わかんじき、ハーケン、ハンマー、カラビナ、ザイル、ヘルメット、雪山用の防寒具などを使わない。一方、山岳部はこういうものを使う。
 山岳部はワンゲル部とは履く靴が違う。頑強さ優先でとっても重いものだ。ワンダーホーゲルの人たちが岩登り用の本格的な靴を履いていると、山岳部の人は、密かに失笑したくなるものだ。
 ワンゲル部は山小屋を使うことがあるけれど、山岳部は基本的には山小屋を使わない。当時の山岳部は、短波放送から気象データを得て、自分で天気図を書いて、天候を予想した。そして、山岳部の連中は野ぐそをした。
 私の登山は次の実績だ。( )内はメンバーの数。
S36. 8(2)美ヶ原<長野県>:中学3年
S37. 8(2)茅野→天狗岳<八ヶ岳>
S38. 2(2)御在所岳→鎌ヶ岳<鈴鹿山系>
S38. 8(4)燕山荘→大天井岳→槍ヶ岳→上高地→前穂高岳→上高地<北アルプス>
S39. 8(1)西穂高岳、御岳山、乗鞍岳:高校3年
 次は【この頃の写真】
余談:
 上高地で撮った。この翌日に一人で西穂高岳に登った。
 カメラはドイツ製で、当時日本に数台しかないとその持ち主(撮影者)に聞いた。
 写真屋にフィルムを持ち込むと写真屋が驚いたという代物だ。
 横幅30cmぐらいにしてプリントしてあったものをデジカメで撮った。懐かしい青春の思い出だ。
S39.11(2)藤原岳→御池岳→白瀬峠<鈴鹿山系>
S40. 5(7)大冷沢→赤岩尾根・鎌尾根→鹿島槍ヶ岳<北アルプス> 山岳部初山行
 初めて信濃大町駅に降り立った。
 キスリングの重さと長いアプローチに参った。当時は現在よりもうーんとアプローチが長かった。
 雪が多かったし、寒かった。雪上歩行の練習、ピッケルの使い方の指導を二日間たっぷり受けた。
 後立山の稜線に上がると、荘厳にして壮麗、ものすごい景色が現れた。立山連峰、そして、剣岳だ。
S40. 7(4)木曽駒ヶ岳
S40. 7(多)剣岳(7/16〜7/27)<北アルプス:雪渓登攀と岩登り>
S40. 8(3)針の木雪渓→北葛岳→烏帽子岳→双六岳→笠ヶ岳<北アルプス>
S40. 9(5)釜沢→広河原→荒川小屋→大河原<南アルプス>
S41. 3(5)木曽駒ヶ岳
S41. 3(多)中崎尾根→西鎌尾根→槍平<北アルプス>
S41. 5(多)岳沢→西穂沢→西穂高岳→上高地<北アルプス>
S41. 6(1)愛知川→黒谷<鈴鹿山系:遡行>
S41. 7(多)剣岳(7/16〜7/31)<北アルプス:雪渓登攀と岩登り>
S41. 8(4)室堂→五色ヶ原→平の渡し→東沢出合→赤牛岳→槍ヶ岳→上高地<北アルプス>☆☆
S41. 8(2)白馬岳<北アルプス>
S41.10(3)白馬岳→朝日岳→北又小屋<北アルプス>☆☆
S41.11(多)田の原→御岳→黒沢
S42. 1(3)御池岳→藤原岳→静ヶ岳→宇賀渓<鈴鹿山系>
S42. 3(7)黒薙温泉→突坂山→猫又山→清水岳→白馬岳→白馬大池<北アルプス>
S42. 8(3)来海沢→海谷→732高地→雨飾山→梶山新湯<沢登り・長野県>
S42.10(2)雷鳥平→別山→剣沢小屋<北アルプス>
S43.10(2)燕岳→大天井岳→常念岳→蝶ヶ岳<北アルプス>
S44. 7(1)利尻岳、旭岳、羅臼岳、雌阿寒岳、十勝岳、富良野岳<北海道各地>
S44.10(1)日野春→横手→黒戸山→甲斐駒ヶ岳→仙水峠→仙丈岳→丹渓山荘<南アルプス>☆☆
S45. 5(1)峨々温泉→かもしか温泉→熊野岳→刈田岳<宮城県→蔵王>:社会人初年
S45. 7(2)岳温泉→安達太良山→鉄山→鬼面山<福島県>☆☆
S45. 8(2)鉾立→鳥海山→湯の台温泉、乳頭温泉→乳頭山→湯森山→秋田駒ヶ岳→横岳<秋田県>☆☆
S45. 9(1)蔵王・五色岳<宮城県>
S45.10(1)<吾妻縦走>浄土平→一切経山→家形山→天元台<福島県>☆☆
S45.12(1)岳温泉→安達太良山<福島県>
 これが私の青春だった。身長 154cm、体重49Kgのひ弱な体で、急峻な雪渓登攀とロッククライミング、そして、内省の心に終始する単独行、こういうものに励んでいた。☆☆印は私の推薦コース。
 自分で歩いて眺めた景色は一つ一つが思い出深い。素晴らしい財産だ。20代でソープ通いにうつつを抜かしている人には、そんなことをする暇があるなら山に登りなさいと言いたい。
 私は、上の山行のいくつかについては、メモ書きが残してある。
 次はS43年3月 黒薙温泉→突坂山→猫又山→清水岳→白馬岳の山行の記録だ。
 この春山登山は、北アルプス最北の高山の白馬岳を、宇奈月経由で西の黒部渓谷から登り、大糸線側へ下りるものだった。大変長大な突坂尾根の登山で、一般登山道が作られていないところを歩いた。
 3月なので、夏山登山と比べれば、富山県側も長野県側も交通機関があまり利用できず、アプローチが大変長かった。
 積雪量はかなりのもので、一気に高度をかせぐような登りが少なくても、登攀がとても大変だった。稜線は厳しい冬型の気圧配置になればシベリア並に寒くなるところだ。それが緩めば雪崩が心配で、これを喰らわないように徹底して尾根づたいに登ることになる。
 下手くそな文章だが、私が20歳の時に書いた文のまま掲げる。赤字は今回書き入れた注記だ。
計画 突坂尾根隊:総員7名
 3月3日名駅発  8日 予備日 13日雪倉岳attack
  4日黒薙温泉  9日 予備日 14日 予備日
  5日1420m地点 10日白馬岳稜線 15日最終帰名日
  ;6日1820m地点 11日 予備日
  7日清水岳 12日白馬鑓ヶ岳
3月 3日 大勢の見送りに送られ、期待と不安を胸の内に抱きながら出発するのはいつものこと。
4日 曇後小雪
 富山地鉄からの、朝日に映える剣岳北方稜線は美しい。宇奈月に入れば、我々がはじめての入山者とのこと。ここから黒部峡谷鉄道のトロッコ列車の軌道を歩く。長い長いトンネル歩きで、雪崩の心配はない。足元が悪いから、トンネルの暗闇の中の歩行にケッコウ疲れる。
 11.10 黒薙温泉着 黒薙川を見下ろしながら昼食をとり、北又谷に想いを馳せる。1,100m地点に、私を含めて5人のメンバーでデポ、急な登りであった。
 デポとは、あらかじめ食料だけ高い地点に運んでおくことをいう。
5日 雪 沈殿 東工大の山岳部のパーティのテントが小屋のそばに見られる。
 沈殿とは、停止状態・足止めをいう。宇奈月で、我々がはじめての入山者と聞いたから、東工大のパーティは入山届を出していなかったのかな?
6日 小雪
 東工大の人と共に軽い荷物でデポ地点に上がる。そこで、小屋に肉を忘れたことに気がつき、V氏が取りに下りる。バテバテと突坂山(1503m)を越えると、早くも健脚のV氏が追いつき、東工大の設営地点を見て雪洞を掘る。
 私を含めて4名がテントで寝て、残りの3名が雪洞で寝た。1400m地点。
 標高1000m台でも、黒部の谷あいはさすがに雪が深く、大変な登りであった。積雪量があっても高度が低いから、雪洞は中が湿ってかなり不快であった。
7日 曇後風雪
 出発するやすぐにアイゼンを履いて、六ヶ所のフィックス地点を抜く。(フィックスとは、安全のためにザイルを渡したところをいう)
 ぞーっとするほど右も左も谷に切り落ちている
カミソリエッジ、急登急降下が続いたカミソリエッジの様々なピークの登りはしょっぱい。(しょっぱいとは、冷や汗ものの意。ナイフエッジの稜線である上に、雪が柔らかかったから、足場の雪ごと崩落する危険もあって、ザイルを張ったのが六ヶ所もあったので、腋の下にたっぷり汗をかいた)
 尾根筋がなだらかになり、
降雪が激しくなった昼時に、タンネを一杯にして雪洞を造る。テントは一応張ったが、七人全員が雪洞で寝た。1500m地点。
 タンネはもみの木。雪洞作りにはなかなか時間がかかる。この日は気温が下がり、前日のような融雪はなかったけれど、その代わり、むちゃくちゃ寒かった。
8日 曇後快晴
 楽な稜線に変わり、猫又山(2308m)を一路めざす。振り返れば、剣岳北方稜線が素晴らしい。剣尾根、八つ峰のスカイライン。右手には槍ヶ岳も見える。
 猫又山の登りにかかる頃からわかんじきのダンゴが強烈。天気が良すぎる。(わかんじきは、深い積雪地を歩くときに使うもの。雪温が高くなって、わかんじきに雪のダンゴができて往生した)
 フルに動くが、猫又山は越えられず。2100m地点に設営。
 出発の日から7日まで、強い冬型の気圧配置であったが、8日になってようやく崩れた。
9日 曇 ガス及び風強し
 15mの風の中を、猫又をまき、2500m地点まで兎に角上がる。清水岳(2603m)は越えず。半日かけて快適な雪洞を掘る。3時半頃には天気も良くなり、明日に期待をかける。
10日 風雪 沈殿
 この日エッセン当番なる故に、雪洞の端に寝ることになり、寒くてなかなか眠られず。ホットケーキを二箱開けて、実にうまかった。
 10日は前線が通過し、悪天候だった。雪洞での寝る位置はじゃんけんで決めて、負けた者はがっかりする。内側で寝るのと端で寝るのとでは熟睡の程度がかなり違う。端で寝るとかなり寒い。
 エッセン当番とは食事係のこと。ホットケーキを持っていったのは食料係だった私のアイデアだった。出発前には先輩たちに不評だったけれど、食べてもらったら大好評だった。
11日 風雪 沈殿
 凍傷にかかって痛い。日程が遅れていて、白馬鑓ヶ岳attackは断念することになった。9時の天気図には、高気圧もちらほら見えるようになり、13時でも大変ガスが濃かったので、明日の天気の回復に期待する。
 また冬型の気圧配置となり、兎に角悪天候が続いた。
12日 曇後晴 11時までは非常に風強し
 前日の天気図より好天を期待して2名のエッセン当番は2時に起床した。しかし、曇天で強風であった。日数も迫っているので、兎に角5時前に出発した。
 とても気象条件が悪く、視界はそれこそ1m、少し歩んだだけで、凍傷にかかりそうになる者多し。その時一年部員のY君が腹痛を訴え、急遽下山することに決定。
 Y君の病気のことを考え、更に、食料の残りも少なくなった(先の行程箇所にデポした食料品の回収ができていない)ので、適当数を先に下山させようとリーダーが決めた。
 先行下山メンバーに私を含め三名が選ばれ、早々に強風の中を出発。昨日あんなに近くに見えた白馬岳が馬鹿に遠くに見える。急なアイスバーンが続き、後輩のX君を気遣いながら清水岳を越えると、意外にも東工大のテントがあった。
 兎に角猛烈に寒くて、顎が凍り、また、時には意外に深い雪に足を取られて苦労する。やっとのことで旭岳の手前まで辿りつく。視界が晴れると、イヤな感じの、どす黒い雲が遠くに列をなして浮かんでいる。
 旭岳(2867m)のピークをまこうまこうと思っているうちに、結局ピーク近くまで達した。一年部員のX君がバテている。
 後立山の稜線への(ホワイト現象で)おぼろげな尾根の急な側面を下りる。バテバテと小屋に這い上がれば、20分の休憩も充分長い。初めての休憩らしい休憩だった。(それまでは強い風に晒されていて休憩どころではなかった)
 白馬岳の稜線からは、風が強いだけに石ころが出ているところが多く、夏道もはっきりしていて、アイゼンがすり減るかと胸を痛める。
 見下ろせば、大糸線が走っているあたりも雪化粧。右や左に眼をやりながら、バテバテと小蓮華岳を下る。乗鞍岳の登りが実につらい。それを忘れんものと天狗原へシリセードを試みるもなかなか滑らず。(シリセードとは、斜面の雪面に尻をついて滑り降りること〜尻制動)
 更にバテバテと落倉をめざす。夜になって冷えたのと、スキーで踏みかためられたのとで、道は歩きやすく、夕闇と星空を愉しむ。しかし、Z君は下りの強行軍で膝を痛め、僕は痔が痛くて、全くさんざんであった。
 松沢でライトバンを呼ぶことができ、12日も終わる頃になって松本に出ることができた。
 帰宅後書いたこのノートに、新聞から毎日の天気図を切り取って貼り付けた。どの天気図も、南北に幅狭く並んでいる等圧線の縦のラインか、それが崩れて低気圧が通過しているのが認められる。
   【写真を参照】
 この後立山連峰の北部の稜線越えは、振り返ると、3月にしては珍しく悪天候が続いた。この時の山岳遭難は件数が多かったと記憶している。
 とにかく、全行程でまともに晴れた日がなくて、悪天候に悩まされ、寒気と強風をたっぷり味わうことができた。
 思い出深いのは、最終日に至って凄まじい強行軍をしたことだ。AM5時前からPM9時過ぎまで歩きづめで、疲労はまさに極限状態だった。
 昭和42年、20歳の時のこの山行は、荒天に悩まされたとはいえ、一生忘れ得ぬ素晴らしい冒険になった。私は2年部員だったから、さすがに1年部員よりは体力と気持ちに余裕があり、積雪や烈風と格闘しながらも愉しんでいた。
 今ネットで、国土地理院地形図閲覧システムによりこの春山登山の行程を地図で追うと、直線距離では20kmぐらいだが、白馬稜線より黒部側はとにかく雪が深くて大変なところだ。
 とても寒いところなのに大汗かいて登ったこと、ずーっと痔が痛かったこと、それに沈殿ばかりで雪洞の中で談笑に花が咲いていたことがとても懐かしい。
 それにしても、HPを創らなかったら、この大昔のノートをしみじみと振り返ることはなかったと思う。私は完璧にノスタルジアの世界に浸ることができた。いいものが残してあった。
 もう一つしっかり記録が残してあった山行がある。
 それも掲げる。(旧HPの文章をそのままで)


 私は子供の頃から大変運動が苦手で、体操の時間はそれこそ皆の笑いものになるほどぶざまな動きをしておりました。雲梯、鉄棒の逆上がり、跳び箱、縄跳び、何をさせても零点です。ドッジボールの動きは滑稽ぶざまそのものだし、ジャングルジムのてっぺんまで登ることができません。
 小学生の時キャッチボールなんて到底できませんでした。高校生になっても大学生になっても、そんなものはできませんでした。
 大学では山岳部に入りました。露営地でテントの設営とか食事の準備などをしていて、仲間に何か物の手渡しを頼み、手渡しでなく、ホィと投げられると、飴玉だろうがリンゴだろうがアルミの碗だろうが取り損ねてしまって、「お前は、本当に、運動神経零やなぁ」と笑われていました。
 私の父は麻雀キチガイだったから、仕事が休みの日は日中から雀荘に行ってしまい、幼い私と遊ぶようなことは殆どありません。だから、父と屋外で球技なんてしたことがなかったです。
 大人になって長男ができて、息子が小学生の時、私は息子とキャッチボールをしました。果たして自分がボールをキャッチすることなんてできるだろうかと思っていましたが、グラブを手にすると、なんとすんなりできるので驚きました。
 私は休日に何度も息子とキャッチボールをしましたが、息子は大変楽しそうでした。つかの間のボール遊びが私にはたいそう幸せに感じるひとときでした。幸せ感でそれこそ涙ぐんでいました。
 この喜びがいかに大きなものであったかは、普通に運動能力がある人には決してわからないと思います。運動がまるで下手ということは、女の子がデブでブスの容姿にうちのめされている時のように、男の子にとってはとってもつらいことで、その屈辱感が私にはトラウマのようなものです。
 その強烈な劣等感があったから、私は中学の時も高校の時も書物に熱中していたのかもしれません。
 そんなコンプレックスの裏返しで、私は大学に入ると山岳部に入り、山に登りました。でも、体力がない上に運動神経が零だから、全くお荷物のような部員でした。仲間に迷惑をかけていました。
 上の私の山行の記録に一見変な山行があります。
S41.3(多)中崎尾根→西鎌尾根→槍平<北アルプス>
 3月の合宿山行で北アルプスに入山して、山の頂上に登っていないです。何故かというと、私が大失敗をしたからです。
 その行程の詳細を当時のメモにて掲げます。
 なお、『(多)』は、春山山行合宿で多数のパーティという意味で、参加人員は8名でした。赤字は今回書き入れた注記です。
 総員:8名 計画:奥丸山→中崎尾根→槍ヶ岳→双六岳→烏帽子岳
 3月16日(概ね雪)高山を出て、蒲田までトラック、新穂高温泉経由滝沢出合付近までデポ。
 随分速く歩いた感じであった。柳谷小屋泊。(デポとは荷物だけ先に運ぶこと)
17日(雪)柳谷から槍平小屋へ(さすがに積雪多くなる)
18日(晴→雨)奥丸山へ猛ラッセル行軍。山頂直下にフィックス。
 (ラッセルは深い雪をかき分けて歩むこと。フィックスとは、急斜面等で安全のためにザイルを張ったということ)
雪庇<せっぴ>を切って奥丸山を越え、雪洞を掘る。二つ作ったが、積雪量が足りないから構造が悪く、雨も洩り、しっかり寝ることができなかった。(雪庇とは、稜線部に風雪でできた雪の庇。相当大きな張り出しになることがある)
19日(雪)風速10m以上。一斗缶(食料)を4缶残して 9.15 出発 11.45 幕営地。
20日(雪)沈殿(沈殿とは、幕営地から動かなかったということ)
21日(吹雪→晴)沈殿
22日(小雪)残してあった4缶を回収した後、ジャンクション手前まで進む。風強し。
23日(小雪)ガスが濃い。風も強い。ジャンクション直下を出て西鎌尾根へ。
  12時頃西鎌尾根にて滑落500m、軽傷。
24日(晴)8時皆と別れ、新穂高へ降りる。しみじみと下る。滝谷の景色が奇怪。柳谷小屋に泊まる。
25日高山の病院へ。
参考:現地の地形を理解するためには次をご覧いただくのが良いです。
 http://www.webnagano.jp/gps/yarigatake.html

 一年部員として最初の1月の山行は親の反対が強くて参加できませんでした。とにかく昭和38年1月の愛大山岳部パーティの薬師岳遭難事件(13人死亡)の記憶が名古屋地区では生々しく残っていましたから。私も冬山登山は恐かったです。死にたくなかったです。
 しかし、次の3月の山行は親を何とか説得して参加しました。
 雪山登山は夏山と比べて何かと用具を整えなければなりません。必要な防寒用具などを買いそろえ、ピッケルを片手に、キスリングにわかんじきを取り付け、飛騨高山に向けて出発しました。
 16日から23日まではずーっと悪天候でした。18日は、3月の北アルプスの奥地でなんと雨。わかんじきを靴に取りつけ、奥丸山への猛ラッセル行軍は、雪がだんごになってわかんじきに付着し、大変でした。
 雪洞は水槽の中で寝ていたようなものでした。天井から水滴が絶え間なく落ちて、床は水たまりだらけ、全員の装備がずぶ濡れで、寝袋は水に浸したようになり、翌朝にはたいそう冷え込んだのでそのまま凍りつきました。皆凍った寝袋の中で眠れずにふるえていました。
 経験豊富な先輩たちが「3月でここまで天気の悪い日が続くことは珍しい」とあきれていました。
「天気さえ良かったら、3月の登山は最高だよ」と言われて、自分の運の悪さを呪っていました。
 私は沈殿しているだけでも寒さで体力を消耗し、疲労困憊でした。そこで私は、槍ヶ岳の肩口の稜線から谷に滑落する事件を起こしたのです。
 とんでもない急斜面を 先ず500m以上は転落して、軽傷で済んだのが奇跡的です。それは、西鎌尾根を38Kgぐらいのキスリングを背負い、アイゼンを靴につけて、ピッケルを使い、稜線の強い風をこらえながら、槍ヶ岳に向かって慎重に登っている時のことでした。
 怪我の状況は、頭に大きなたんこぶが三つばかりでき、全身打撲、顔と手足に擦過傷、特に両手の手のひらは、全面がずる剥け状態でした。手袋を当然はめていたけれど、転落の間にとれて、両手の手のひらから十本の指先まで斜面の氷で真皮までが見事に削らていました。
 片足がびっこを引いていても、骨折はなかったです。だから、自力で下山ができました。
 手のひらの皮が氷にえぐられた後遺症は長くありました。今でも私の手のひらは、両手とも異様に赤いです。クラブのホステスとかソープの女には、「この手、どうしてこんなに赤くなっているの?」と質問されます。
 このときに私が書いたメモ書きが残してあります。39年前のものです。飛騨高山の病院での治療の光景から書き起こしているのですが、もう大変懐かしいです。皆さんにこれを披露しましょう。
 赤字は今回入れた注記です。
 大先生の特別の診察というわけか、周りには手の空いた看護婦が4人も僕を見下ろしていた。
 手から包帯が取られたら、なんと無惨なこの手、とたんに貧血を起こし、目の前がネガの世界のようだ。包帯を取る前に横になるように言われて、「いや、このままでいいです」と強がって言った僕だったが、もう座ったままではいられない。
 横になって注射を打ってもらうと、剣岳の夏合宿を思い出す。「ああ、セミの声が聞こえる」(体力の低下で慢性中耳炎が悪化し、激しく耳鳴りがしていました)
 春の真昼の日ざしが斜めに顔に当たる。数日前までの厳しい風雪との格闘がうそのよう。ぎらぎらと光る装飾窓ガラス。生というか命というか、何か妙竹林なものを感ずる。ここは飛騨高山の病院。応急治療が済んで病院を出て駅へ急ぐ時、この体験は文章に残そうと思った。
 その後一週間は、痛みに夜も寝つかれなかった。かさぶたが全部とれてしまった頃には、もう何もかも忘れてしまったような気がした。
 しかし今、あの遭難について書こうとすると、ことの細部まで憶えているから不思議だ。
 そもそも親の反対で、春山も冬山と同様やめるつもりだったが、山岳部に入ったというのに、仲間と行動することができず一人だけ下界に残る寂しさに耐えかねて、尻軽に、お調子にのって参加した登山だった。
 とめようとする親との出がけのケンカのことも、高山に着き、オート三輪に乗り込めばさらりと忘れた。槍平小屋までの、雪山らしい吹雪、初めての経験だから驚いた。それにしても、重荷がつらくて、初日の行軍からもう疲労困憊だった。脚力のなさがつくづくいやになる。
 奥丸山の登りのラッセルにもびっくりした。急登坂だから、雪の深さが頭の上にまで達している感じで、登るというより雪の中に沈んでもがいていた。汗だくになっても、登攀時間の割に、距離も高度も殆ど稼いでいなかった。
 この日 3月18日から22日までの、グショグショ・バリンバリンの中崎尾根での雪洞生活が凄まじかった。(バリンバリンとは、すべてがグショグショになって、その後凍ったことを示しています)
 こんなひどい状態でも人は凍死しないものだなぁ、と感心したのが、今思い出すとおもしろい。
 23日、(薬師岳方面から槍ヶ岳をめざして南下中の)仲間の隊と交信でき、ジャンクション直下を西鎌尾根の稜線に向かう。
 初めてのウィンドクラストの急斜面が、前夜までの睡眠不足にはこたえる。やっとの思いでジャンクションにたどりつけば、冷たい風にシューンとするが、飴を頬張って休息を取る。(ウィンドクラスト〜強風で氷のように固くなった雪面)
 あたり一面全部ガスに包まれ、しかも、強い横風を食らう悪天候だから、このまま設営に入るのかと期待したけれど、出発ということになった。キスリングの重さをひとしお感じながら歩き始めた。
 眼鏡に雪がこびりついて景色は見えず、手はジンジン、足はキーンキーン、鼻水ダラダラ、身も心も最低であった。やっと1ピッチの行進が終わる。(1ピッチの行進とは、背負う荷物が40Kg台で15分、荷物が30Kg台で20〜30分の歩行です。その後5〜10分の程度の休憩です)
 天気は幾分先ほどよりも悪くなった。眼鏡は横殴りの雪がすぐに付着して役に立たないので、これを外して、2ピッチ目が始まる。
 ホワイト現象で、天と地との境目が皆目区別がつかない。空間を漂っているようだ。超近視が裸眼で歩くのだから最悪。
 堅いアイスバーン。例によっておずおずと渡る。上り坂の上に、進行方向に対して左が高く右が低いという難しい斜面。直進に危惧を感じ、左上にあがる。何か言われたが、風で聞き取れない。バランスを崩し、身動きがとれなくなって、助けを求める。
 その時、左足は後ろに置き、右足は40cmぐらい前。右のアイゼンの横に、助けるようにピッケルの石突きが差し込まれる。
 ありがたい。リーダーも大変だなぁ。
 そろりと左足を前に出そうとする。前に置いた右足が邪魔に感ずる。
 あっ!
 一瞬、顔に当たる空気がそれまでと違ったものに感じ、また、目の前を灰色の物が回るのが見えた。これ以降、体が停止しかけるまで、僕の視覚はなかったようだ。
 見ていた仲間の話によれば、左足が着地したその時に、横ざまに倒れたようである。
 僕は、急斜面で、バウンドし、回転し、そのうちにキスリングから左手がはずれ、最後は俯きの恰好になり、手足の至る所全身でブレーキをかけるようにして、斜面が緩やかになるにつれてストップしたらしい。
 滑落の最初に殆ど気を失っていて、滑り落ちる間のいくつかの自分の体勢の断片的な記憶しかない。同じ俯せの恰好でも、ザックが体と雪面との間にあったり、右横にあって、額が雪面についていたり、或いは、手やつま先が斜面についていたり、半身の体勢であったり、というふうに、断片的、不連続な記憶しかない。
 自分の体勢は視野で確認したというよりは、全身の触覚と三半規管の力だけで感じていたと思う。聴覚は、ザーザー滑り落ちる音が時々聞こえたようだ。その音は大変大きかった。
 視覚については殆ど機能していなかった。後から考えて、あのとき全部目をつむっていたのでもないと思うのだが。下等な動物が高等に進化するにつれて、触覚、聴覚、視覚と機能を強化していくというのがわかるような気がする。
 とにかく僕の体は重力の法則に従って翻弄された。
 滑落している間、思考の方はどうだったかと考えれば、ただ目まぐるしかった。しまった!という気持ちと、何とかせねばという気持ちが巡り回った。
 また、もうすぐ死ぬんだという意識、恐怖感、そういうものがあったからこそ、僕は転落中に過去の思い出がわき出でていた。
 極限──絶望感──むなしいあがき、そういうものの残痕が手のひらに残っている。ただ、あの瞬間に、もっと生きていたいという欲望があったのかよくわからない。ここで死んだらみっともない、という恥の意識だけだったのかもしれない。
 だからいわないこっちゃない、柄にもなく山岳部なんかに入って!という半分自嘲の眼があったのも覚えている。
 だが、次の瞬間には、「人は何のために生きるのだろう」なんて命題も頭に浮かぶ。墜落している最中なのに、自意識が一つのことを考えると、そのたびにそれと逆の思考が現れて、それが交互に繰り返して想いは巡る。そして、その陰で、もう一つの眼が、「これは茶番劇だ」という皮肉の眼が常にあったのは、不思議といえば不思議だ。
 その傍観者的なこと。やはり一抹の厭世観が心の片隅に残っていたのだろう。
 死への恐怖感、それはただの痛み、最後の苦しみへの恐怖感にすぎない。そして次には、死ぬことの快楽を思い浮かべる。錯乱。矛盾。
 しかし、数分後転落が止まった時、僕が感じていたのは生還の喜びだけだった。そしてもう雑念がわいてこない。
「どうしたのだろう」
 ぼう然としてあたりを見まわす。

 思い返せば、一瞬の気絶から醒め、自分が滑落していることをはっきり認識した時、体が仰向けになっていることに気がついた。そして、自分の体を止めなければと思う。直後に体が堅い斜面をバウンドしたようで、ものすごいショック。
 そんな中で、前年のクリスマスパーティのどんちゃん騒ぎを、その時の母の顔を思い出す。
「お母さん、先に死んでごめんね」という言葉はこんな時に使うのかな、そう思うと、現在の緊急事態がテレビドラマのような気がする。照れくさくなる。
 気も動転する緊急事態の真っ直中でこんなことを考えるなんて不思議だ。その時そう思った。
 テレるとは何事だ。母のことを考えてみろ。
 落ちながら自分を叱ると、すまないという気持ちがわいてくる。
 現に滑落している最中なのに、僕には様々な思考が現れた。そんな考えが浮かんでいる自分を傍観者的に眺めている自分がいた。
 一体俺は何を考えているのだろう。早く何とかしなければ。ザックをはずさねば。
 ジェットコースターに乗った時のあの感じ。金属でできた暗い円筒の中を果てもなく真っ逆様に落ちる自分を想像する。(はるか後年、『スターウォーズ〜帝国の逆襲』だったか?でそんなシーンを見ました)
 死んだ後で、息子がどうして山岳部なんぞに入ったのかと母が考えるだろうと思って、母の代わりに自分が考えてやる。そして、母は俺を理解することはできないだろうと結論する。
 いつのことだったか、俺が山で死んだら発狂する、と言った母の引きつった顔を思い出す。妹も悲しむだろう。そして、父について何も考えないことに気がついた。何故俺は父を憎むのだろう。
 思い出は絵画的に、思考は感覚的に巡り回る。
 体は回転し、バウンドする。バウンドするたびにきつい衝撃が体を走る。頭も何かにぶつかる。手も顔も痛いということはわかる。痛すぎるから、早く死ねばいい。
 茶番だ。滑稽だ。つまらない。そして体は急斜面を回転して落ちている。落ちている自分の気持ちの分析なんかしているから、俺はとことん不真面目だ。痛いから早く死にたいと思っている自分を別のところから観察している僕がいる。
 こう書いていると、まるで滑り台を滑っているような気がするが、あれこれと想いが駆け巡っても、全ては一瞬の間のことだ。0.01秒間で、頭の中には四つも五つものシーンが映写されているように明瞭に浮かぶのだ。転落の真っ只中でも、思い出は絶え間なく続いた。
 こんなシーンもあった。中学に入学した時のこと。母が「今日からは私も働くから、お前は勉強だけはしっかりやってね」と涙ながらに語った時の顔を思い出す。
 雪と氷の斜面の 500mぐらいの滑落は1分はかからないだろう。気絶している時間と、転落のスピードが落ちて、もう止まるだろうと思ってからの時間を差し引けば、ほんのわずかな時間しか残らない。
 すべては一瞬。
 不思議である。あの短い間に、どうしてあんなにいろんなことが出てきたのだろう。今振り返ればとことん奇妙だ。人は死ぬ時自分の人生の重要なシーンが走馬燈のように駆けめぐると聞いたが、そのようなものだったのかもしれない。

 落ちていく感覚が薄れて、ひょっとしたらと思った時、僕は手と足を強く雪面に押しつけて制動をかけた。一度「生」を意識した時、もう思い出は出てこない。走馬燈がストップした。
 滑落スピードの低下と生還の確信。雪の斜面で静止している自分に気がつく。どうしたのだろう。
「大丈夫か」
 声をかけられた時まで、僕の頭は完全に空白だった。
 声の主がリーダーのTさんだとわかり、返事を返す。あたりは見なれない光景。斜面の少し上の方にあったザックの他は、雪まみれで皆真っ白。はいていたオーバーズボンの青色が目にしみる。
 急に体がズキーンと寒くなる。大変なことをした。立ち上がると体がふらついた。
 ピッケルは? アイゼンは? 皆どうしているのだろう? 山岳部と仲間のことがどっと頭に押し寄せた。
 失った装備などを探しているうちに稜線のガスが晴れた。見上げれば、首が痛くなるような角度のところに、槍ヶ岳が望める。(眼鏡をなくしたから)目を細めて、その荘厳な三角の山頂を眺め、自分が転落した長い距離の雪面を確認した時、生きているということをしみじみ感じた。
 下から見上げると、稜線近くはまるで断崖絶壁だった。
 稜線から仲間が下りてきた。皆の親切について、助かったことについて、単純に喜びながらも、自分の失態をののしる心が行き交う。
 骨折を心配する先輩に返事をしながら、至る所やぶれてしまった衣服をしみじみと眺めた。真皮までそぎ落とされた両手からはポタポタと血が滴っていた。雪の上の紅い斑点が鮮やかだった。
 これを書いた時、私は転落した自分のそばに何故リーダーのTさんがいるのかということに思いが至りませんでした。
 かなり後になってからそのことに気づき、自分の思考の鈍さ、勝手さに腹が立ちました。
 Tさんは私が滑落した瞬間、それを止めようと、咄嗟に急斜面に向かって頭からダイビングしたのです。
 仲間は二人が白い斜面を滑り落ちるのを見ていました。二人とも5mぐらい下降すると、もう姿がガスの中に消えてしまったから、「これは、二人とも死ぬかもしれないぞ」と、驚愕の状態になったそうです。
 私はとにかくTさんのダイビングを聞いて、本当に青ざめました。
 へまをした私が軽傷で済んで、Tさんにもしものことがあったら、私は一生重荷を背負って生きていくことになります。それに、もし逆の立場だったらそういうことが自分にできるのかと考えると、いたたまれない想いになりました。
 この事件は、私には痛恨の思い出です。そして、人の本質的善意と責任感とを頭に焼き付けた出来事です。
 この山岳遭難は、(1) 体力不足・身体能力の限りない低さ (2) イモなアイゼンを使ったこと の二つが原因でした。
 アイゼンの爪の先端が摩耗して丸くなっていました。山岳部の保有装備を使ったのが失敗でした。やはり自分でアイゼンを買っておくべきでした。
 私は西鎌尾根を登っている時、堅いアイスバーンにアイゼンの爪が殆ど効いていないのを腹立たしく思い、不安を感じていて、とうとう滑落してしまったのです。
 その後高山市内の医院に入るまでのことは、とにかく痛みをこらえて必死に歩くことだけで精一杯で、殆ど覚えていません。高山線の車内のこともショックの発熱状態で全く記憶がありません。

 その年の夏、私は富山から入り、剣沢にベースキャンプをおいて剣岳(立山の北に聳える大変急峻な山)をいろんなルートから登攀する二週間の長い合宿(7/16〜7/31)を終えた後、下山せずに引き続き(8/1〜8/7)の期間
  室堂→五色ヶ原→平の渡し→東沢出合→赤牛岳→槍ヶ岳→上高地 の長いコースの縦走をしました。
(ということは、7/16〜8/7の期間の食料を合宿の最初に運んだということで、すごいですねえ。重かったです。47Kgの体重で50Kgの荷物。粗食で過ごしましたがね)
 立山連峰を越え、黒部源流まで下りて、イワナ釣りをし、久し振りの新鮮な動物性タンパク質に、感動の舌鼓を打った後、できて間もない読売新道を登って赤牛岳を越え、西鎌尾根から槍ヶ岳に向かいました。
 西鎌尾根を通った時、5ヶ月前の転落地点をしみじみと眺めました。私が滑落したと思われる斜面は、3月の失敗がまるで幻のようなお花畑でした。
 あの時、西鎌尾根の北側は完全にガスに隠れて何も見えませんでした。夏の陽光の下で尾根から北側の景色を眺めると、黒部源流が深くて荒々しい渓谷を刻んでいます。斜面は赤茶けた地肌をむき出しにして絶壁に近く、北鎌尾根も眼下の斜面も岩だらけで、起伏が顕著でした。
 西鎌尾根を、もし北側へ滑落していたら、確実に命をなくしていたと思います。私は南側へ落ち、しかも、たまたま転落したコースに凸凹が比較的に乏しかったのです。だから、軽傷ですみました。
 起伏がもっとついていて、バウンドして空中を落ちるような羽目になって、着地地点が堅かったら、或いは、勢いよく露岩に激突していたら、死ぬか瀕死の重傷を負っていたことでしょう。或いは、積雪の状態が良くなかったなら、雪崩を引き起こして巻き込まれていたでしょう。
 尾根の南側の斜面も、稜線から谷底を見下ろすと、吸い込まれそうな切れ落ち方でした。あの時防寒具の化学繊維の衣類は雪面に摩擦が利かないので、飛ぶように落ちました。滑落距離は 500mぐらいと書きましたが、槍ヶ岳のカール状の地形をかなりのスピードで滑落した私の体が、斜面が緩やかになって停止するまでのなが〜い距離です。ひょっとしたら 700mぐらいあったかもしれません。
「よくぞ死なずに済んだ。俺にはウンがある。これからはいいことがあるかもしれないぞ」
 そう思っていました。

 滑落の日、ガスが晴れてようやく姿を現した槍ヶ岳は、下から見上げているからあまり雪面が見えずに、黒々として大きかったです。忘れられない偉容の峻峰です。
 今よりはるかに時間がかかる高山線をショック性発熱で朦朧としながら乗車に耐えて帰宅した時、私の顔と頭は異様なまでに腫れ上がっていました。顎のとがった痩せたトンボ顔が、出血と擦過の痕だらけで健全な肌が見られない真四角の将棋盤のような顔になっていました。
 キルティングの服はビリビリになっていて、血まみれで、眼鏡がなくなって、右脚はびっこをひき、両手から肩まで包帯が巻かれ、頭のたんこぶはまるで漫画のように大きく晴れ上がった姿です。
 母も妹も腰を抜かすほど驚きました。事実は母は腰を抜かしました。何しろ最初は我が子であると識別できず、浮浪者が迷い込んだと思ったのですから。
 私は腰が抜けるという文言を耳にすることはよくあるけれど、後にも先にも人が本当に腰を抜かす光景を見たのはこの時だけです。母はそれから約40年経ってもあの時見事に腰が抜けて手足だけバタバタさせていたことを想い出語りすることがあります。
 帰宅してホッとしたものの、1週間ほどは両手の激痛に一日中悩み続け、私は始終うめいていました。通院が不要になって、家で包帯を取り替える時、母はすぐに正気を失うので、中学生の妹が取り替えました。
 取り替える時はそれこそ激痛でしたが、親不孝をした罰だと歯を食いしばってこらえておりました。
 昭和41年、学生の時の文章ですが、他人に見ていただくために書いたものではありません。ただ、自分にとって一生の記憶になるに違いない出来事だと思うから、思い出が風化しないようにと書きとめておきました。それを39年後に、インターネットなるもので世間に披露するとはねえ。
 読み返してみると、エロな表現が一つもありません。これは私にしては珍しいことです。
 沈香も焚かず屁もひらずの人生だけは送りたくない──高校生の時からそう思っていたけれど、この事件にしても、耳の病気の話の体験にしても、また、どエロHPの制作にしても、ちょっとばかりイレギュラーが過ぎているようです。
 ブラームス・へ短調のような単調な人生がいいです。

 山岳部には2年と少しの間所属していて、体力的について行けないと思った。
 とうとう退部したけれど、その後も私はよく登山をした。
 就職し、任地の仙台に行ってからも、1泊以上の登山をよくした。例えば、安達太良山は3回、会津磐梯山は2回登った。秋田駒ヶ岳、蔵王、栗駒山、鳥海山、岩手山、吾妻連邦なども登った。
 しかし、2人目の子供が生まれるとさすがに家事・育児の手伝いなどの配慮から登山は止めた。スキーも止めてしまった。
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(千戸拾倍 著)