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ソープ嬢は『女』だ!!

 ソープ嬢なんて、なるもんじゃない!──そう思うソープ嬢は多いでしょう。なぜそう思うのか。
 見知らぬ男にお金で身を任せることがイヤでかなわなくなった。これはあんまりいないでしょう。それはわかって業界入りしたのだから。
 ソープ嬢はヘルスから移ってくるのも多いですが、異動の理由は、口で射精させることを続けているとどこかでこの行為が虚しくなるのです。それに、客(時には店)から本番の要請が多いのがかなわないし、店に自分より若い子が多くなれば憂鬱だし、更に、ソープのほうがお金が稼げるのではないかと考えます。やるならやる店に行ったほうが良いです。
 それで、ソープに移ってみると、やっぱり本番のほうが楽で、口内射精という変形セックスばかりの勤めが一応普通のセックスになり、『正常化』の意識が持ててホッとします。
 そういう子でも(ソープ嬢なんて、なるもんじゃない!)と思い悩み、そして、その仕事を続けます。他にやる仕事を考えたら、(頭にはくるけれど、ソープ嬢しか私にはできない!)と思うのです。
 では、何をもって頭にくるのでしょうか?
 それは、男性とセックスに幻滅するのです。
 そりゃそうなりますよ。客の容姿が悪いのや、息が臭いのは、そういう人もいる、と思って我慢します。
 我慢できないのは、セックスについて抱いていた乙女心、甘い痺れる何かの期待、そういうものがソープで働くと木っ端みじんに粉砕されてしまうことです。
 ソープで働くと、男の即物的でひたすら動物的な欲情処理、とにかく勃たせて、嵌めさせて、勃起支援に明け暮れて、セックスって一体何だろう?、となるのです。
 ピストン運動はあっても、痺れるような愛撫はありません。陶然と身を任せるような導きがないのです。逆に、男からペニスへの刺激を待ち受けるのを示されるだけ。更に、ピストン運動で気持ちがいいのは男だけ。私はどうなるの。気持ちがいいふりをしているだけ。家に帰ってからオナニー。
 女は本来男性にセックスを導かれるようにできています。だから、一生懸命にフェラチオして、ペニスをこすり、自分から上になって嵌めるべきペニスを握って……、このように自分でセックスを采配している時に、ふと──私は一体何をしているんだろう──と思ってしまいます。
 私はそのような嘆きを馴染みの嬢の何人かから聞きました。しかたがないですねえ。ちっとも素敵じゃないエッチがほぼ百パーセントなのだから。
 ローションまみれのペニスを握り、手のひらをカリの背に当て、ペニスを根元に押し込むようにしてローリング揉みをねっとりしてやり、男が目を瞑ってヒイヒイ身をよじらせているのを見ると、よがらせるのが楽しい反面、時には(これがセックスなの?)と白けることもあるでしょう。
 時々愛撫をしかけてくる客がいても殆どが下手で、しかも、女心がわかっていません。その気になって相手に任せたくなる客なんて滅多にいないのです。
 たまに任せてみようかなと思って受け身になると、後で2ちゃんねるに「××姫はベッドに寝て、俺にペッティングさせるだけで、俺は3回戦ができなかった。何しにソープに行ったのかと思った。俺はマンコまで舐めてやったのに」なんて源氏名つきで書かれてげんなりします。
 ソープ嬢の不満はよくわかります。
 私は素敵なエッチを心がけているから、40代の時に次のような言葉を3回言われたことがあります。
「私はいつもお客とセックスしている時に誰であろうと(早くイッて!)と思っているけれど、貴方の時だけはそう思わないの」
 まあ50歳を超えると抽送が長持ちして、こんな発言をされることはなくなりましたが。

 金津園ワールド泡姫データベースを眺めていると、人気の女は間違いなく“抜き”上手です。
 この抜き上手には2つのタイプがあります。
  (1) 物理的に勃起と射精を誘うのが上手
  (2) 精神的に勃起と射精を誘うのが上手

 (1) は、フェラチオが熱烈、手指の使い方がうまい、カリ首の刺激において持続性が高い、たゆむことなくしつこくペニスに攻撃をかけてくる、女上位の時に腰をうまく動かせられる、このように動作面で男が感嘆するような積極性と巧さがある、ということです。
 (2) は、絡み合っている時に、求める、話しかける、見つめる、よがる、しがみつく、感にたえない顔で男の体のどこかを強く掴む、抽送中にキスをせがむ、快感を訴える、陶酔の仕草を見せる、射精後に抱きつく、このように情緒面で男が瞠目するぐらいの巧さがある、ということです。(嬢が意識的にやっていることに気がつかない男が多いのが問題ですが)
 このどちらかだけに偏した嬢もいるけれど、大方は折衷しています。
 この手の嬢を、男は(この女は好き者だ)と思うことが多いけれど、好き者というよりは“仕事熱心”なんです。皆稼ぐためにやっているのだから。控え室ではちゃんとこういうことを論じあっています。
 嬢が精一杯勃起を誘導して射精を重ねさせると、泡姫データベースに賛辞の投稿がしっかり入ります。
 他人に秘め事を公言することもなかろうに、堂々と臆面もなく書き込むんですね。ソープ通・遊び人っぷりを誇りたいのでしょう。表の世界での鬱屈をそういうところで晴らしたいのかと思います。
 自分はHNだから問題ないかもしれないけれど、相手の女はその名前で世間に認知されているのだから、女のことも思いやれ、と腹立たしいです。
 そう考えると、その手の投稿をする客は、単に嬢の“抜き”上手に浸っているだけなら、まるで品性のない射精猿男ではないでしょうか。
 若い女が愛嬌をたっぷりと見せつけながら、寝そべった男に対して能動的に動きつつ上手な性戯を繰り出せば、確かに誰しもがペニスを硬くします。射精後もお掃除フェラに続き悩ましげにタッチをして回復を早く誘い出します。
 そんな嬢を、わざわざネットに賞賛文を書き込んでまでして絶賛する射精猿男の殆どが、自分の射精行為の質を考えていません。これは、前戯の巧さ、前戯の時間、抽送の巧さ、抽送のそれなりの時間+うちとけの巧さ、その気にさせる誘導、こういうことです。
 そして、嬢のフェイクで出すよがり声に感動しています。自分のペニスがバギナの壁とこすれていると、嬢が快感を本気で楽しんでいるに違いないと錯覚します。サル男たる所以でしょう。
 ネットに書き込む遊び人に、女性をよがらせることにおいて一級の達者はまずいないだろうから、ネットで、男上位の抽送中に嬢が見せるよがり方が素晴らしいと称えられている嬢がいたら、それは90%はフェイクだと思ってよいです。
 また、女上位の上下動中に嬢が見せるよがり方が素晴らしいと称えられている嬢がいたら、それは99%フェイクです。
 やり手のソープ嬢は、自我を育てて能動的に動く近代女性の鏡のような振る舞い方をします。積極的にファックを誘い、主導的にピストン運動を発揮させ、なんと自ら快感を追い求めるふりまでしてくれます。
 でも、性交渉で能動的に動くのは基本的には男であるべきです。泡姫データベースで『抜き技』を讃えられる嬢は男性的な性格なのでしょうか。
 確かに、私が“抜き”パワーで定評ある嬢に入浴すると、即ベッドの当初彼女たちの積極果敢な様は全く男性的に見えます。抜きパワーで人気があるのは、即のプレイへの入り方(堂々としていて、さっとかかる)とフェラチオでの手と唇の使い方ですぐに察知できます。
 面白い事実があります。私が、この手の抜き上手と賞賛を浴びている嬢に入った時の概ねの感想です。
 皆見事に『女』になってくれるのです。
 確かに導入部の段階では書き込みの通り、嬢が攻勢的に私の股間に取りかかります。しかし、私がプレイを急がず存分に語りかけて自分のペースで進め、クンニリングスして快感を導けば、どの嬢も私におまかせの様子になります。濡れそぼち喘いでいただけます。
 私はつくづく思います。ソープ嬢は『女』だと。
 男が適切に振るまい、上手にリードした時に女になります。そして、女になった彼女たちは遊びの終了が近くなった頃よく私に言います。“抜き”に徹してばかりいることのぼやきを。
 女には『女』になってもらわないと、ちっとも魅力がないでしょう。
 まるで男のように能動的に動き回り、勃起支援の限りを尽くして、女上位でもって激しいフェイクや淫語をまき散らすような熱意あるソープ嬢はそれはそれで結構ですけれど、いつもそれを求め、それ以外の嬢を頭から否定する“やってちゃん”の男は最低なんです。

 それにしても、嵌めごっこはどうしてあんなに気持ちが良いのでしょうねえ。柔らかくて温かくて湿ったところにチンボを差し込んであれだけ気持ち良くって楽しいのに、どうしてもっとたくさんの男が有料の膣内射精行為に向かわないのか不思議でなりません。
 デパートの買い物、老人ホームの慰問、映画館での観賞、町内会行事の弁当摂食、素人の異性とのキス・性交、何をしても感染の危険があるのに、ソープをやたらと危険視するのが奇妙なことです。
 平成の終わりがけになって梅毒患者が増えています。梅毒は罹患がなかなかわかりにくいから、流行りだすとよく流行る可能性か確かにあります。梅毒は恐ろしい症状が現れますが、あれは末期患者に見られるもので、早めに発見できれば容貌が変わってしまうようなことはありません。でも、感染初期に重大なる症状が出ないからなかなか調べないのが怖いです。
 金津園で梅毒を貰うことは少ないと思います。嬢は月2回検査しておれば、先ず大丈夫でしょう。その月2回の血液検査の間で嬢や客が罹患するのは、これはもうしょうがないです。そこまで心配しておれば道も歩けません。
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(千戸拾倍 著)