ここでは私の生涯最も記憶に残る入浴を書き綴る。
平成14年の
4度目の二輪車に登場の春菜(仮名)が相方だ。
この頃金津園はNSを売りとする店とそうでない店とがはっきり分かれて、後者ではゴム着用が殆ど必須だった。標準入浴時間が 100分ぐらいで、在籍の嬢の多くが20代の店なら、NSの接客を公言する嬢が先ずおらず、勤続の長い嬢が特定の常連客にNSを許したかもしれない程度だ。
NSを不可としている店ではなかなか規則破りが難しかった。そういう方針の店だからこそ嬢が応募したのだ。金津園の店がゴム着用を申し合わせたのが平成4年で、それ以降に業界入りした嬢に初会や2度目の入浴ぐらいで生嵌めをするのはかなり可能性が乏しかった。
春菜もゴムを使っていただく確たる方針だった。しかし、私には生を認めた。私以外に例外はなかったと思う。
春菜は健康と快活の権化と思える嬢で、私は長年の遊興歴で最も心を奪われたと言っても過言ではない。金津園遊びをエクセルで平成5年からまめにメモっていたが、春菜に通い始めてから、
(ヘルスの通い嬢を除けば)もう春菜以外の女に入浴しないだろうと思ってメモるのを止めたぐらいだ。
私は金津園で遊ぶに当たって相方に良性記のことを教えない。入浴した嬢で、私が良性記の制作者であるのを知ったのは、由美、春菜、歩の3人だけだ。
由美──良性記は由美の協力で制作したようなもので、当然由美には作品を見せた。
春菜──由美が春菜に常連客の私が千戸拾倍であることを教えた。
春菜は金津園ワールドを見るから、由美にそのことを聞く前から良性記を知っていた。
歩───良性記を知っていて、私の所作
(ブランデーをロックで飲み、エロくて、クンニがうまい)や体格から私が千戸拾倍だと察した。
小娘なのにエロいのが素敵な嬢を参照。
だから、会った嬢が、猥雑サイトの制作者と知ったらいかなる応対をするだろうかと考えはしない。良性記を世に出してから1年経ち、金津園関係のネット談義で私が話題にされたとはいえ、50歳をとうに越えた爺さんがさほど金津園の女の関心を呼ぶはずがないと思った。
(1) 二輪車をした。
(2) 次の
(a)、
(b)、
(c)の行為。
(3) 自分と客が全裸でみだらなことをしているのを仲間の女(由美)がデジカメ撮影するのを許した。
・キスシーン
・私が春菜のラビアを開くシーン
・フェラチオシーン
・M字開脚にて放尿し(a)、私に飲ませている(b)シーン
・私が春菜のアナルに指を入れている(c)シーン
(4) 仲間の女(由美)と私が全裸でみだらなことをしているのをデジカメで撮影した。
(5) 男のアナルに指を差し込んだ。
(6) クンニリングスでイクところを仲間の女(由美)に見られた。
(7) 仲間の女(由美)がクンニリングスでイクところを鑑賞した。
(8) 客が仲間の女(由美)とファックしているのを間近に眺めた。
(9) 中出し精液の流出シーンを間近に眺めた。
2度目と3度目の対面では、客のためにブランデーを用意したことの他に次の通り初の体験があった。
馴染みの嬢が名古屋駅西のソープ店に移るのは前年秋の香織に続いてだ。
それで、平成14年の夏には名古屋駅西のソープ店に通い嬢が2人いることになった。
当初は──近場で、安いぞ──とほくそ笑んでいたが、すぐにインフラ的にみすぼらしいことが我慢できなくなった。ベッドが狭くて固いから、性行為の味わいが良くない。それに、部屋の内装が酷くて、照明が暗く、手狭なので、ハメ撮りも全く出来の悪いものになる。
後5年で、年収が減るであろう60歳に到達することもあって、とうとう名古屋のソープのほうをやめると決断した。その時由美を断念せざるを得なかった感傷から、エクセルでソープ遊興記録をつける気をなくした。
由美を止めたことを負い目に感じ、(金津を出たからだぞ)と言い聞かせながら私は春菜にのめり込んだ。そのことは
本指名の入浴に書いたとおりだ。