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金津園遊び初期の想い出

 平成5年に小説を書き出した頃、思いがけなく昔のメモを机の引き出しから見つけた。金津園遊び1年目(昭和58年)の入浴の覚え書きだ。
年月 店名 相方 令和元年店名
S58年 2/15 コンチネンタル男爵
    3/3 コンチネンタル男爵 秋(2)
    ? コンチネンタル男爵 秋(3)
    ? 女々(めめ) 玲子 紫音
    5/4 貴公子 ミドリ 貴公子
    6/26 貴公子
    ? 貴公子
    ? 貴公子 茜(2)
    ? 女学院 慶子 ViVi
    8/10 夢の国 ナナ 恵里亜
    ? 夢の国
    ? 夢の国 マリ
    ? パールヒルトン スザンナ ジュリエット
    ? ジルコン マリア ラブミサイル
    ? パールヒルトン マリア
    ? パールヒルトン メロディ
    11/23 パールヒルトン スザンナ(2)
    12/8 パールヒルトン ニーナ
    ? パールヒルトン マリア(2)
    12/22 パールヒルトン シャネル
    12/28 パールヒルトン スザンナ(3)
S59年 1/6 パールヒルトン リンダ
    2/8 パールヒルトン キャンディ
    2/11 パールヒルトン キャンディ(2)
    3/3 パールヒルトン キャンディ(3)
 表の年月に?が散見されるのは、昭和59年3月に 過去1年間の金銭費消の多いことを反省しようと思い、記憶をたぐって書いたからだ。
 メモの最後の日、3月3日雛祭りの日に、妻がごちそうを用意しているのに、早く家に帰らなかったいけない亭主、ダメな父親、の反省を込めて書いた。でも、その後の行動を見ているとあまり反省にはなっていないようだが。
 更にその後、そのメモの内容をパソコンに入れ、その時実際の源氏名を仮名にして、原紙を捨てたので、今となっては思い出せない源氏名がある。
 これから、初めてコンチネンタル男爵に入ったときの不安と勇気やら、初入浴の戸惑いやら、煌々と明るい中でのファックやら、秋にすっかり逆上せたことなどをしみじみと思い出す。(初めての金津園参照)
 とにかく私は、妻以外の女と本番行為をするのが、ストリップの舞台の上以外では初めてだから、自分史の夜のニュースとしては新婚初夜に次いで驚喜の事件だった。割れ目の中の色がわかる明るさでエッチをしたのも、たぶんそれが初めてだろう。
 初めて料金の高い店に入ったのが貴公子で、確か38,000円クラスだったから勇気が要った。(もしかしたら40,000円を超えていたかも)
 当時貴公子は金津園の中で第一級の店に属していた。当時の金津園の超高級店は、重役室、ロイヤルヴィトン(現在はクイーン)、貴公子の三つだけだったと記憶している。(あとは英國屋?)
 貴公子は、どの女も美人でスタイルがよく、マナーがとてもしっかりしていた。
 ミドリ(源氏名が正しく記憶されているか疑問だ)の美形には驚いた。雰囲気がとてもよくて、売れっ子だったと思う。ただ、遊び慣れていない私は上手にあしらわれた感じで、裏を返していない。
 茜というのが2回会っているから、ソープ嬢としてはたぶん彼女に初めてクンニリングスをして、それで気をやらせたのだろうと思う。
 私はクンニリングスがやりたくても、風俗嬢の性器に口をつけることはそれまでためらっていた。
 そして次に女学院で慶子と出会った。
 慶子から私は一生忘れることのできない感動を得て、金津園遊びが生涯の道楽になった。日本人離れしたジェスチャーをして、仕草が優美で、知的で、更に、快感反応が明瞭で、すてきな女だった。
 ソープ道入門1の慶子の個所を読むと、実話にしても誇張がかなり入っているだろう、そんな昔のことを細かく記憶しているのは信じがたい、と思う人がいるかもしれない。でも、限りなく実話だ。
 懐古と賛美の心が記憶を改竄してはいないだろう。彼女のおかげで、ソープ嬢=娼婦の等号が成り立たなくなった。その後は慶子のような女性を追い求めて金津園に通ったと言っても過言ではない。
 貴公子に入るのは愉しかったけれど、やはり高級店で遊ぶのは自分の所得に合わないと思い、その次は、夢の国を攻略した。ここでは、3回入っても、いつも人気の低い女を当てられたようだ。
 ジルコンは私が長い金津園遊興歴で利用した最廉価店だ。相方が店のナンバーワン嬢だったので、今でもおぼろげにこの時の入浴を覚えている。すごく元気の良い女だった。美人なのに最廉価の店で働くのが不思議だったが、私よりも背が低いほど小柄だったので、中級店で働くのを諦めたのかもしれない。
 次のパールヒルトンは女が揃っていて、スタッフの愛想の良さと料金の安さが気に入った。閉店するまでこの店に定着したのはスザンナとマリアの魅力のお陰だ。
 スザンナは他では書いてないけれど、忘れることのできない女だ。肌がとても白くて、ウエストとヒップとのサイズの違いが顕著な、華麗なプロポーションをしていた。
 とにかく、目鼻立ちの美しさと、面長で顎が尖り気味の、その笑顔の華やかさに私は感激した。素敵な女が見つかったと喜び、裏を返して、ベッドでの昂揚ぶりに胸が高まった。
 とても表情が豊かで、言葉遣いが良く、見るからにお嬢さん風だ。スザンナが私の愛撫を盛んに褒め、気をやったことに大いに感激していたことに喜んだ。
 スザンナのベッドでの燃え方がなかなか激しいので、私が「貴女は服を着ていると全くお嬢さんだけど、ベッドではまるで娼婦のようだねえ」と冷やかしたら、にこっりと笑って「褒めて下さってありがとう」と返した。
 僅かな逢瀬でスザンナとすっかり親しくなって、それがとても嬉しかった記憶だ。
 スザンナとは5回しか会っていないけれど、ソープを上がらなかったなら、私は熱心に通い続けた。
 メモ書きした寸評を見ると、当時私は情熱的なベッドが味わえたスザンナにはとても感激したのに、何せ銀座のホステス出身の慶子との一度の逢瀬があまりにも衝撃だっただけに、スザンナよりももっと素晴らしい女がいるのではないかと探し求めて、パールヒルトンの他の女にも入った。
 もっともそれは、スザンナがなかなか店に出なかったのが原因でもあった。
 スザンナは24の若さでリューマチ症状が出て、足腰が痛くて躯がだるいといつも訴えた。椎間板も痛め、時折激痛が走るぐらいだから、スザンナが上になる女上跨位は到底できないので、「自分で腰を動かそうとしない客が来るととても困る」とこぼした。
 私は会話の度に、スザンナの持病を慰める言葉を一生懸命に探した。腰のダメージがひどくて出勤日数が少ないのがもどかしかった。
 スザンナはソープの仕事がどうにも耐えられなくてとうとう上がった。
 ソープの客は女上位でしたがるのが多いと知ったのがこのときだ。何故男上位でして、自分で腰を動かさないのか不思議でならなかった。

 金津園遊び2年目(昭和59年)の想い出は何と言ってもマリアとラムに通ったことだ。
 この想い出はソープ道入門2に書いた。マリアは豪快によがったので、イクまでクンニリングスを続けるという愉しみ方をマリアで身につけた。
 更に、ソープ道入門3にキャンディが登場する。ここではスタッフに新人嬢としてキャンディを勧められたと書いたが、正確には、キャンディとキャロラインの2人の19歳の女を教えられた。
 昭和58年12月28日に、待合室に大勢の客がいる中で、マネージャーが私にだけ、当月に入店した2人の新人の写真を見せてPRしたので記憶に残った。
 キャロラインも美人で私は入浴したかったけれど、スザンナ、マリア、ラム、キャンディの4人に通っていたので、キャロラインは我慢した。そのキャロラインは後年中森明菜という名前で活躍した。
 キャンディは 昭和59年2月に初入浴し、すっかり填まったがすぐに退店した。その後にラムを知った。
 パールヒルトンがこの年の半ば?に閉店して、私はマリアを皇帝に、ラムをダイヤモンドクラブに追っかけた(源氏名はラムから別の名に変わったから、後述のラムは別人になる)
 この年で他に想い出深いのは、ロイヤルヴィトンのセリーヌとボンボンのミカだ。
 セリーヌは、それまでで一番値段の高い店に入っていろいろ目を瞠ったことが想い出で、この時の体験を平成5年に思い出して次の回想をまとめた。
 ロイヤルヴィトンという店は後年ルネッサンスという名前で営業するが、昭和59年の頃では金津園で最も料金の高い店だった。当時私はそんなに収入があったわけではなく、料金が45,000円のロイヤルヴィトンに入るのは憧れだった。
 雑誌で、その店のセリーヌという名の、背丈が 168cmで、私より14cmも長身の女の、優しそうな笑顔が眼に止まった。
 セリーヌは24歳は超えているようで、それほど若くもなく、飛び抜けた美人でもないけれど、大層売れっ子の評判を耳にして、清水の舞台から飛び降りる気持ちで指名しようとした。
 なかなか予約が取れず、その人気ぶりに私は期待をふくらませた。ようやく対面すると、セリーヌはそれまで見たことのない上品な接客のしかただった。部屋に迎え入れるなり三つ指をついて挨拶し、その物腰と話し方がいかにも愛想が良くて上流の雰囲気を装っていた。
 長身の上に腰幅も大きく、ウエストはきゅっと括れ、足がとても長かった。圧倒されるナイスボディで、高価そうな下着に包まれた肌が白く、顔は写真の通りに愛嬌のある丸顔だ。
 それで、初対面の会話には柔らかい雰囲気の中にいかにも手慣れた貫禄がにじみ出ていた。全体に洗練された高級プロという様子で、さすが高級店の売れっ子、参りました!……という第一印象だった。
 それまでは部屋の小さな店に入ることが多かったから、私はロイヤルヴィトンのセリーヌの持ち部屋の広さと、ベッドが円形でとても大きいことに感心した。
 躯を流し終えるとセリーヌがベッドプレイに誘った。会うなりすぐ交わるという楽しみ方があることは週刊誌の記事で知ってはいたが、やはりどっきりした。
 いきなりセックスをして射精したら、後で手間をかけずにまたすんなりと勃起できるだろうか、今ベッドは遠慮したほうがいいかな、でも、高い料金を払うのだからやってみようか、 110分の入浴時間ならば時間も充分だから2回戦も可能だろう、受けてみようか……と迷いながら、誘惑には勝てなかった。
 セリーヌは私を寝させて陰嚢にチロチロと舌を這わせてからペニスを咥えた。
 私は既にペニスを漲らせていたから、すぐに「嵌めよう」と声をかけた。セリーヌが躯を入れ替えるかと思ったら、そのまま女上跨位で入れ込んだ。
 会ってすぐの女上位の交合は怒張が充分なのに射精感が今一つだった。
 若い頃暇を持て余して、気持ちは全く亢奮していないのに、何となくオナニーをしてしまった時のような放出感だ。会っていきなりセックスするのは、躯がその気でも心がついてきてないから、そのせいか、結構味気ないものだと思っていた。
 後から考えると、顔を合わせたばかりで親密になってないこともあるけれど、私よりずーっと大柄な女が上になったので、組み敷かれている感じや女の尻で圧迫された睾丸の感覚が心のどこかに抵抗感を呼んでいたのだろう。
 マットプレイでは、セリーヌは私の両脚の間に腹這いになって、何とも微妙で巧妙なフェラチオを延々と続けた。それでも、ペニスは回復力が弱くて項垂れたままだった。起立しかけたと思うと萎んでしまうので申し訳のないような気分だ。
 セリーヌが果てしなくちろちろと舌先をカリ首に這わせても、ペニスが強張った後なら気持ち良いだろうが、一度放出した私には、怒張をもたらすほど芯に響かない。むしろ強引な摩擦が必要だった。
 でも、まだ30代の私には女に愛撫のやり方を注文するような心の余裕と勇気がなかった。
「皆、ベッドの後のマットではなかなか堅くならないわよ」
 セリーヌが言うと、嘘まで言って慰めるな!と思って歎いた。
 ペニスが全く起立する気配もなくマットが終わり休息になって、私はブランデーのロックを求め、金津園の店で初めて強い酒を楽しんだ。
 高級店のゴージャスな気分を味わいたかったからそうしたのだが、それまでブランデーのロックを口にすることは少なく、度の強さに噎せ込んだ。セリーヌは、無理してぇ!と思ったに違いない。
 愛想のいい歓談の後の第2戦はやはり起立に大層苦労した。
 特大の丸いベッドでセリーヌが私の愛撫に乱れ、また、私の分身を誇らしい姿にさせるためにセリーヌがしていた微妙な技とその懸命さに心惹かれ、さすがに高級店は凄い女がいるぞ!と感心した。
 セリーヌも、私の指使いのしつこさと、微妙な動きを続ける耐久力にあきれただろう。
 セリーヌには数ヶ月後に裏を返したが、もう一つ心に飛び込める感じがしなくて、続けようか迷っているうちに福原の店に移ってしまった。

 セリーヌは『2回戦に本気で挑戦』というある意味トラウマになった行為で想い出深い。
 2回戦は自分の弱い精力により金津園遊びの当初から諦めていた。そもそも昭和58年の頃の金津園は大方の嬢が初対面の客に射精させたらもう合体させなかったのではないかと思う。
 それで2回射精に本気で挑戦したのが昭和59年のセリーヌだ。まだ37歳だけれど、精力の乏しい私は当然2戦目を射精に失敗した。この時の不成功が痛手過ぎて、その後レビトラの助けを借りるまでは2回戦に挑戦したことがなかった。(すずめの宿のユキさんに無理矢理挑戦させられたことはあった)
 なお、この時の入浴は
(1) 雑誌で顔の写真を見た上で入浴した初体験(この頃顔出しする嬢は大変少なかった)
(2) 165cm以上の女と性交する初体験
(3) 初めにマットではなくベッドをする初体験
(4) 入浴時にブランデーのロックを飲む初体験
という初めて尽くしだった。
 2回戦ができないからにはロイヤルヴィトンのように高い店は不適格と悟った。
 私はなるべく廉価な店で頑張るべきだと思い、それまで利用した店の中で最も安かったジルコンよりも僅かに高いボンボンに入った。
 ボンボンは金津園の店では1つの名前でかなり長く続いた後(多分平成20年前後まで)、DURAS CLASSICという店に替わってそれほど年数が経たないうちに○暴との関わりでもって検挙され、廃業になった。
 ボンボンでミカを知って、私はその淫乱な官能に溺れた。
 ミカの入浴数は20回に近く、スザンナ、マリア、ラムの入浴数をしっかり上回っているのに、何も書き物を残していない。
 美人ではなく、性格的にも疑問が湧く嬢だったからで、それで何故通ったかというと、要するに、エロ女で、スタイルが見事だったからだ。知性的に無残な状態で喋りに全く魅力がなく、見るからにすべたでも、私の愛撫を期待してにたっと微笑んでおまたを開けば、そして、私の抽送に全身でしがみつけば、買春は楽しめる。
 更に付記すれば、マン臭があって、背は私よりもはっきり長身で、女性器の執着的・粘着的愛撫を楽しんだ初体験で、(中イキしていたなら)中イキさせた初体験になる。
 しかし、──何でこの程度の女に!?──という気持ちがあるから、ミカについては何も書いていない。若くてド助平なのが魅力でも、にたっと笑うと気持ちの悪い顔になった。

 金津園遊び3年目(昭和60年)の特筆事項は次だ。
  ★ダイヤモンドクラブのマヤの妖艶さに驚く
  ★ラ・カルチェのニーナに惚れ込む初めて惚れて通った女に書いた)
 マヤについては、2003/09/09に金津園ワールドに入れた書き込みの中にラカルチェの想い出に書いた)
   ダイヤモンドクラブ(マヤ)…御存じ、伝説の妖女、金津の歴史に残るソープ嬢。
というのを入れたことがある。昔はかなりの有名嬢だったけれども、私が対面してから間もなく上がった記憶で、書き込んだ平成15年では知っている人が少ないかもしれない。
 令和元年の今マヤについてググっても全くヒットしない。それは不思議で、残念だ。
 平成4年に、抜群に有名なダイヤモンドクラブのラム(ルイ1に登場)に入浴した。ソープ歴のあるラムならマヤを知らないはずがないと思って質問したけれど、マヤを知らなかった。
 とぼけられたと思ったから、当時はラムのライバル意識の強きことを認識したが、本当に知らなかったのかもしれない。
 私の金津園遊興史にマヤ、マリア、ラム、キャンディの写真がある。スキャナーで写真を取り込んだのは平成6年で、あの時にこういう便利な機械が職場にあり、しかも、私が昔のソープ情報誌を保存していたことが今にして思えばありがたい。
 女の写真で、ソープ遊びという素晴らしいものが生き甲斐にできてわくわくしたあの頃が思い出せる。

 本作が扱う時期の私の『初めて』をまとめておこう。
1.妻以外の女の膣に中出し──初めての金津園
 これはコンチネンタル男爵の秋が初めてだ。それまではゴム着放銃しか経験がない。
2.本指名の遊び
 これはコンチネンタル男爵の秋が初めてだ。
3.金津園の高級店(4万円超)での遊び──本稿
 貴公子のミドリが初めてで、美人だった。
4.標準入浴時間80分未満の大衆店での遊び──本稿
 これはジルコンのマリアが初めてだ。
5.20歳という若い女に嵌め遊び──ソープ道入門 3
 これはパールヒルトンのキャンディが初めてだ。
6.嬢を追っかけ──ソープ道入門 2
 パールヒルトンが昭和59年末に閉じて、熱心に通っていたマリアとラムを追っかけた。
 ソープ情報誌に顔出しするラムがダイヤモンドクラブに出たと知った。
 ラムからマリアが皇帝に出たと聞いて、初めて追っかけた。
7.毎月のように指名した初めて(女の淫乱ぶりを楽しむ遊びの初めて)──本稿
 ボンボンのミカ(濡れマンに悩殺)
8.ピンクチェアの初めて──本稿
 ダイヤモンドクラブのマヤに奉仕されて驚いた。
9.金津園で名が響いている女に入浴した初めて
 ダイヤモンドクラブのマヤ(良かった!)
10.惚れて長く通った女の初めて──初めて惚れて通った女
 ラ・カルチェのニーナ
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(千戸拾倍 著)